2021年12月25日土曜日

134) 【徒然に】伊予内子の和蠟燭と洋画家 高島野十郎

伊予内子の大森和蠟燭屋さんに行ってきました。念願でした。今回の愛媛の旅で訪れたかった場所の一つです。

内子には大江健三郎氏の生家があり前々から興味がありました。そして内子の名産品である 江戸時代から続いている和蠟燭は、是非ともその製造過程を見学したいと思っておりました。木蝋の精製の途中でできるのが生蝋(きろう)。この生蝋をつかってできるのが和蝋燭です。

和蝋燭の灯りは、ほのかであり優しい色合いです。周辺にゆたかな時間がながれる気がしました。 炭火でゆっくり蝋をとかし、一本一本、手間と時間をかけて作るそうです。職人さんの完全な手しごとです。蝋燭はうすいベージュ色。心がなごみます。

私がこの和蝋燭に興味を持ったきっかけは「蝋燭の画家」として知られる洋画家・髙島野十郎(たかしま・やじゅうろう 1890-1975)を知ってからです。

20年ほど前に 私は和太鼓奏者の林英哲氏が※高島野十郎をテーマに作曲した組曲『光を蒔く人』を聴きました。舞台に野十郎の「蝋燭の絵」を映し出し 林英哲氏が和太鼓を叩いたのです。衝撃的でした! 以来 高島野十郎は私の大好きな画家の一人となりました。

※高島野十郎は一心に写実を追求し 隠遁者のような孤高の人生を送りました。自らの理想とする絵画をひたすら求め続けた生涯です。

『雨 法隆寺塔』など 数々の代表作がありますが、トレードマークともなった『蝋燭』(初期から晩年まで描き続けた連作)は、彼が「蝋燭の画家」と称され 他の追随を許さない卓越したものです。

サイズは 殆どがサムホール (約25×16㎝)という極めて小さい画面であり、その中心に「一本の蝋燭」が描かれています。ただ 炎の色合いや輝き また軸の太さや長さはそれぞれ異なり、ひとつひとつが独特の雰囲気を醸し出しています。

その「蝋燭」の作品は 個展で発表されることがなく、親しい友人や知人に感謝の気持ちとともに手渡された贈り物であったそうです。

一度、高島野十郎の「蝋燭 23点」が一堂に会した展覧会が 久留米の石橋美術館 (2016年10月1日より久留米市美術館に移行) で開催されたことがありましたが、私は仕事で行けませんでした。とても残念な思いをしたものです。


以前から私は 高島野十郎が描いた「蝋燭」は (内子の) 和蝋燭だろうと推測しておりました。和蝋燭ならではの たえず変わる ‘オレンジ色の炎のかたち’ と ‘ゆらぎ’、そして荘厳な美しさ 等など。今回 現物を手にし、それが確信に変わりました!

織部焼 一海窯の盃

大森和蝋燭

六代目・大森太郎氏

2021年12月15日水曜日

133) 【徒然に】司会と朗読

先日、文京シビックホール(スカイホール)での特別公開講座「人類と感染症の歴史 ~ペスト・コレラ・インフルエンザ~」の司会を仰せつかり 無事に終えることが出来ました。講演はおかげさまで大盛況でした。

然しながら 朗読と司会の伝え方は(頭では分かっていたのですが)本当に ‘別物’ だと実感しました。作品の ‘世界観’ というか ‘イメージ’ を伝える朗読と催し物の進行役で傍役である司会者の伝え方は全く異なりました。

司会者は会を円滑に、またお客様には正確で分かりやすく伝達することが求められます。

今回が初司会だった私は、当日 先輩方にアドバイスをお願いしました。すると「声のトーンは少し上げたら。」とか「マイクの位置は下げた方が・・。」等など。また着用するマスクによって聞こえ方が異なると言ったご指摘を頂きました。

私は原稿を頭に入れ「お客さまのお顔を満遍なく見ながら伝えよう・・」と臨んだのですが、「原稿は手に持ち、時々 その原稿に目を遣る感じの方が良い」と、リーダー(某テレビ局の元重役)からアドバイスを頂戴しました。難しいものです。

そして講演中には ご高齢の講師が 突然 マスクを外して話されると言うハプニングが起きました。ご来場者には軽くお断りされた上での行為でしたが。数名での打ち合わせ時には 全く仰っていませんでした。

区側の担当者は狼狽え、司会者の私に「(講演終了後)ご来場の皆様にお詫びとご説明をして欲しい」と頼まれました。いきなりの難題、臨機応変な対応が必要となりました。(何とかクレームもなく無事に乗り越えましたが。)

一方、朗読の方は必ずしも「内容をしっかりと伝達する」ことが大事ではありません。語り手の感性というか読解力、イメージを表現することが求められます。ゆえに、伝え方は司会とは全く異なります。

朗読の目標を
「健康のために 楽しく音読をしながら朗読に近づける」や「誰かのために 読み聞かせをしながら聞き応えのある朗読に近づける」、そして「聴く人の心にしっかり残り、感動を生む芸術を目指す」と仰った方がいます。奥が深いです。

そんな中 私はちょっと変わった「朗読会」を企画中です。今回は ‘誰かのための朗読’ とか ‘感動を生む芸術的な朗読’ ではなく、想いを伝え 共感して頂ける朗読会にしたいと考えております。「飛び入り参加もあり(試案)」等、内輪の楽しい会です。

そんなのは ‘本来の朗読会ではない’ とお叱りを受けそうですが。さて、どうなりますことやら・・。

日枝神社

レンギョウ



2021年11月25日木曜日

132) 【徒然に】在りし日の「ゆしまの郷」の人びと

このコロナ禍の間に「ゆしまの郷」で出会った 魅力的なお年寄りたちが天国に旅立たれました。カズさんの他、キクさん、マツさん、トシコさん、そしてサトシさんです。あらためまして ご冥福をお祈り申し上げます。

今にして思えば、蓄音機演奏家のオヤビンさんのご厚意で、施設において「蓄音機の会」を催すことが出来て 本当に良かったです。

交通費も出ない、完全に無償のボランティアで たっぷり1時間の蓄音機の演奏をお年寄り達にお聞かせしたことです。楽しみの少ない生活をされているお年寄り達に、束の間でも「楽しく、幸せな気分になって頂きたい。」という私の思いからでした。無理をきいて下さったオヤビンさんに感謝です。

当日、6Fのフロアにはお年寄り達が整列しスタンバイされていました。そして演奏が始まると、皆さまの目が輝き お顔の表情が生き生きとし出しました。中には一緒に歌い出す方もお出でで、特に盆踊りの定番曲 『東京音頭』 になると、手踊りまでされる方もいらっしゃいました。 

皆さまとても嬉しそうでした。普段 おとなしいミヨコさん(当時87才 女性)も、リラックスして 優雅に足なんか組み 指先でリズムを刻んでいました。レコードの曲目リストをご覧になり、積極的にリクエストもされていました。

他にも 不自由な手で曲目リストを握り、食い入るように見つめていらっしゃる方もお出ででした。驚いたことに、私が知らない古い歌の歌詞を1番から3番まで ‘そら’ で口ずさむ方もいらっしゃいます。

印象的だったのは、ご自分から殆ど話などされないマツさん(当時90才 女性)まで、歌詞のなかの ‘屋形船’ に反応し、『あたしも若い頃には屋形船に乗ったものだよ。』『綺麗なべべ着て 美味しいご馳走も食べたよ!』 と舌をもつれさせながら、昔話を聴かせて下さったことです。

お年寄りたちの全盛期、華やかなりし頃の姿を垣間見たような気がしたものです。そして 満足感に浸っている私に、カズさん(当時103才 女性)が『○○さん(私のこと)が、この企画をして下さったんですって?』 と茶目っ気たっぷりに私を見つめ、そのお顔をほころばせたことが忘れられません。

その時 私は『異人たちとの夏』(山田太一著、映画は大林宣彦監督)やロバート・デ・ニーロ主演の映画※『レナードの朝』を思い出しました。

『レナードの朝』:医師・オリバー・サックス著作の医療ノンフィクションで、マウント・カーメル病院に入院していた嗜眠性脳炎の20名に、1960年代に開発されたパーキンソン病向けの新薬L-ドーパを投与し覚醒させたが、耐性により効果が薄れていった状況を記述してます。

【ボールや音楽など 様々なものを使った訓練により、患者たちの生気を取り戻すことに成功するが、更なる回復を目指してセイヤーは、パーキンソン病の新薬を使うことを考える。

そして最も重症のレナードに対して使うことを認めてもらう。当初は成果が現れなかったが、ある夜 レナードは自力でベッドから起き上がり、セイヤーと言葉を交わす。

30年ぶりに目覚め 機能を回復したレナードは、セイヤーとともに町に出る。30年ぶりに見る世界はレナードにとって全てが新鮮であり、レナードとセイヤーは患者と医師との関係を超えた友情を育む。

その後、他の患者たちにも同じ薬を使用することになる。すると期待通りに全ての患者が機能を回復する。目覚めた患者たちは生きる幸せを噛み締める。が、最後にはレナードをはじめ、同じ薬を使った患者たちは全て元の状態に戻ってしまう。

セイヤーらはその後も治療を続け、患者たちの状態が改善することもあったが、1969年の夏に起きたような目覚ましい回復が見られることはなかった。Wikipediaより抜粋

ゆしまの郷の人びととの思い出が走馬灯のように浮かんで過ぎていきました。  「蓄音機との会」に参加された あの時の あの方々はもういないのです。   合掌











2021年11月15日月曜日

131) 【徒然に】鏡台を誂える?

前回 130)のブログで、みな子姐さんの写真と吉原に関する本を提供して下さったのは、このブログ 75)76) 「湯島天神祭」にも登場されたMさん(今年82才になられた女性)です。私に傾聴を教えて欲しいと仰った方ですが、それ以来のお付き合いとなりました。

そのMさんが今度は私の『たけくらべ』の朗読を聴きたいと仰るのです。私が近況を尋ねられた際に、朗読のレッスンで『たけくらべ』を一章一章 丁寧に学んでいると、うっかりお伝えしたのがきっかけでした。

私は慌てて「人さまに聴いて頂くには力不足で、まだまだ先になります。」とお返事すると、「早く聴かせてくださいね、私が生きている間に。わたくし、もう82才ですもの。私の感性が豊かなうちにお願いね。」と言われてしまいました。

それで、来るべき私の『たけくらべ』朗読の日のためにお役に立てるならと、花魁道中を復活させた 吉原の料亭 松葉屋の女将、福田利子さんが書かれた本『吉原はこんな所でございました』を貸して下さったのです。

Mさんはとても前向きで積極的な方ですが、以前は 地位ある方だった亡夫に仕え、口答えはおろかご自分の意見など口にすることなく過ごしてきたそうです。ですが 今は自由の身とか。週1~2回の皇居一周散歩などもされていると仰っていました。

そして本来の自分を取り戻し、今まで高齢ゆえ 恥ずかしくて買うのを躊躇していた鏡台を、なんと82才になった今 意を決して知り合いの指物師さんに頼み 誂えたというのです。素晴らしい行動力です。

彼女の素敵なところは「誂えた鏡台」に 初めて映るご自分の姿を想像し、年齢相応のお顔のシミやシワは仕方がないが、せめて ご自分の髪(美しい白髪です)は整えて、綺麗な姿で鏡台に映りたいと、浮き立つ思いで美容院に行ったことです。女心ですね。

しかし 美容師さんに “鏡台” と言っても通じなかったそうです。“ドレッサー” と言い換えて、やっと分かって貰えたと苦笑していました。日本人の美容師さんだったそうですが。 “鏡台” と “ドレッサー” は別物だと私は思うのですがね。

私は「指物師」や「誂える」なんて言葉も通じなかったのではと危惧しました。日本古来の良いものや麗しい言葉、そして文化が失われていく気がしました。

ともあれ、私はその彼女の前で※『口紅のとき』(角田光代著)を朗読して差し上げたくなりました。※『口紅のとき』とは ひとりの女性の6歳から79歳までの “口紅にまつわるエピソード” が書かれた短編連作集で よく朗読される本です。

最後にMさんの名言を一つ。彼女は文化を重んじる方ですが、
『人の生き方に文化がなくなってきたのですね。食事にだって文化がなければ、ただの餌です。』


ガマズミの実

ホトトギス

2021年10月25日月曜日

130) 【徒然に】吉原芸者と伊勢芸者のプライド

コロナ禍の中、私は日本の古典文学に目覚め『源氏物語』や『更級日記』などを読んでいましたが、最近は 朗読のレッスンで『たけくらべ』を学んでおりました。奥が深い素晴らしい小説で、一葉は遅ればせながら マイブームになりました。

『たけくらべ』の舞台は吉原の遊郭。当時の様子が悲しいほど美しく描かれています。私は ※1参考文献を読んでいるうちに、吉原の芸者、みな子姐さんを思い出しました。

※1『明治吉原細見記』斎藤真一著
     『樋口一葉 「いやだ!」と云ふ』田中優子著

11年ほど前です。私は「吉原最後の芸者」と呼ばれた ※2みな子姐さん に三味線を習う機会を頂きました。が・・、残念ながら それから半年後に姐さんは亡くなられました。内輪の手習いとは言え、私はみな子姐さんの最後の弟子と言うことになります。たった半年間の弟子ですが。

※2 みな子姐さん:約80年にわたり 90歳まで芸妓としての活動を続けた。生涯現役を貫き、吉原文化の伝承に尽力し、その芸を世の中に伝え続け「最後の吉原芸者」と呼ばれた。自伝『華より花』 ドキュメンタリー映画『最後の吉原芸者 四代目みな子姐さん -吉原最後の証言記録-』など。

当時、みな子姐さん(90歳)は眼鏡も杖も使わず、きちんとお化粧し髪を整えていました。さすが現役の芸者さんだと私は感心しました。また「芸者は芸は売っても色は売らない」ときっぱり仰いました。プライドですね。

「芸妓として100歳まで頑張る」とも語っていたそうです。月桂冠の入った湯呑み茶碗を横におき、三味線を弾いてくれたことを思い出します。

或る日 私が「吉原最後の現役芸者」みな子姐さんに、三味線を習い始めたことを知った名古屋の友人が「こちらにも 名物芸者のS子姐さんがいるから、一緒にお店に行ってみない?」と私を誘ったのです。

元伊勢(正式には古市)芸者のS子姐さんは、三味線の名手で その三味線を弾きながら歌う「武田節」は絶妙だとか。友人と共に そのS子姐さんの「武田節」を聴きに 東京からわざわざ伊勢まで参りました。が・・・。

小柄なS子姐さんは 御年76才とのことでしたが、和服を粋に着こなされ、きびきびとされていました。もちろん話術も巧みでした。傍らにはやはり元芸者さんの 50代の娘さんと一緒に小料理屋さんを営まれていました。

伊勢の古市は『伊勢に行きたい せめて一生に一度でも』と、江戸時代に道中伊勢音頭でうたわれた「お伊勢参り」を済ませ人々の ‘精進落とし’ で栄えた街で、妓楼や浄瑠璃小屋、芝居小屋等などで賑わっていたそうです。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも出てきますしね。

その夜、宿泊先のホテルで一休みした後、友人等と三人で勇んでそのお店に伺ったのです。楽しみでした! 暫くは良い雰囲気で雑談をし、そしてS子姐さんの十八番「武田節」に話が及んだのですが・・。

友人が「彼女は(私のこと)浅草で吉原最後の芸者さんに三味線を習っている。」といった一言で、S子姐さんの顔が強張り、動揺し始めました。後から思うに、“吉原芸者には負けられない!” 等という、気負いのようなものがあったのだろうと推察します。まったく余計な一言を言ったものです、友人は。

それからS子姐さんは 体調が悪いということで、店の二階に上がってしまいました。なかなか戻ってきません。「あららら、どうしちゃったのかしら。」私は心配になりました。

それでも、私たちが帰る少し前に 二階から降りてこられ、カラオケには付き合ってくれました。でも、歌は・・期待した「武田節」ではなく「黒田節」でした。残念ながら、とうとう最後まで三味線の音は聴かせて貰えませんでした。

吉原芸者への引け目というか・・。みな子姐さんは有名人でしたし。それも含めて一目置かれる存在だったからでしょうか。わたしは残念無念でしたが。


※写真上段は料亭「松葉屋」での芸者さん
 下段は松葉屋の女将、福田利子著『吉原はこんな所でございました』
 なお、女将は作家、久保田万太郎の支援を受け花魁道中を復活させた。


みな子姐さん(左から2番目)1985年頃

2021年10月15日金曜日

129) 【徒然に】ありがとう、カズさん

カズさん (107才 女性) がご逝去されました。大往生だったそうです。長い間 お世話をされていた 姪御さん、Tさんとの電話で知りました・・。ショックのあまり、私は言葉が出ませんでした。二週間ほどの入院で 退院出来る筈だったそうですのに・・。

最初に敬聴をさせて頂いた方がカズさんでした。青葉マークの私が実習で伺った施設にいらしたのです。その日から私の敬聴の師匠になりました。いろいろと大切なことを教えて頂き、同時に とても可愛がって下さいました。 

その模様はこのブログにも たくさん書かせて頂きましたが、特に 16)の「言葉でのコミュニケーションが難しくなった方にも敬聴はできる!」は私のこころに深く刻まれました。相手の気持ちに寄り添えば『心の声をきく敬聴は出来る』と気づかせて頂きました。

「150才まで生きたい!」と仰っていたカズさんは、亡くなる直前まで何やら歌を歌われていたそうです。さすがです。苦しまなかったのですね。それがせめてもの救いです。でも・・、せめて、もう一度だけでも お会いしてお話を伺いたかったです。コロナ禍が悔やまれます。

「伯母は幸せでした。あなたと出会えて。あなたのことが大好きでしたもの。伯母に会いに行くと、“この間 ○○さん(私のこと)がね・・云々。” 等と言って、嬉しそうにあなたのことを話してましたのよ。あなたと会ってから明るくなりましたもの。」と姪御さんに言われました。(勿体ないお言葉で恐縮です。)

そして「伯母のことを書いた記事(ブログ)を是非 読ませてね。」と何度も頼まれました。

カズさんとの出会いは、私にとって貴重で大切なものでした。私の方こそ感謝です。 “敬聴” に取り組む姿勢に大きな影響を与えて下さいました。今後の敬聴活動について、課せられた役割をしっかり受け止めたいと思っております。

本当にカズさんには可愛がって頂きました。大好きだったカズさんに最後のお別れです。ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
                                                                                                       合掌

カズさんはずーっと私のことを、安倍晋三元総理大臣の秘書(このブログ 28)『えっ、総理秘書?』と29)クリスマス会をご参照下さい。)だと 頑なに信じておられました。思い込んでいらしたのです。そのまま逝ってしまわれたのが 少々 心残りではあります。                       
                                

ヤマボウシ
フジバカマ





2021年9月25日土曜日

128) 【徒然に】ひととのつながり

会えませんね。友人達となかなか会えません。メールでは伝わらないことがたくさんあります。電話でも細かいニュアンスや言葉とは裏腹の本音も伝えられません。対面していないからです。コミュニケーションには顔の表情も大切ですから。

コロナ禍で人に会う機会が少なくなった昨今、人との繋がりの大切さを心底 実感しました。前文と矛盾しますが、どんな形であれ コンタクトして下さる方は有難いです。特別な用件がなくてもご連絡を頂くのは嬉しいです。

幸いなことに 私は親類縁者以外にも 学生時代の友人や趣味の仲間たち、また区内のボランティアメンバー等からご連絡を頂戴しております。とても有難いです。

そんな中、月一くらいで 必ずメールをくれる元職場の後輩がいます。ゆかりちゃんです。30代前半で 現在は転職し新しい職場で頑張っています。年齢差もあるのに親しくして頂き とても嬉しいです。この間も 前に私がお薦めした「速水御舟」の特別展が山種美術館で開催中との事でお誘いを頂きました。

彼女とは現役中もランチや飲み会に行っておりましたが、その際には相談事をされ(気恥しいですが)アドバイスをする事も多々ありました。彼女はなんと私の言葉をメモに書き留めていました。私は背筋が伸びる思いをしたものです。

また先日は、編集作業でお付き合いのあった 印刷出版会社のはっとりちゃん(40代前半の男性)からもメールとお電話を頂きました。退職し もう2年が過ぎましたのに 覚えていてくれて嬉しい限りでした。会社の近況や編集業務のこと等で話が弾みました。

私の近況を尋ねられたので「最近は朗読のレッスンで 樋口一葉の『たけくらべ』」を学んでいるの。丁寧に読むと深くて素晴らしい小説よ。」と答えました。序でに 参考文献まで紹介してしまいました。(ご迷惑だったかしら?)

私にとっては『たけくらべ』が最も旬な話題だったので、熱く語ってしまいました!

彼は「良いですねぇ・・。私は恥ずかしいのですが『たけくらべ』は未だ しっかりとは読んだことがありません。でも 気にはなっていました。是非、読んでみたいと思います!」と爽やかに応えました。以前から 清々しい好青年でしたが、更にステキな男性になったなあと私は思いました。

覚えていて下さって 気にかけて頂くのはとても有難いことです。忘れられてしまう事が一番淋しいですよね。ですから 私は友人や知人たちに なるべく連絡を取るように心がけております。

ただ、気がかりなのが敬聴に伺っていた施設のご老人たちです。お元気でしょうか、訪れる人が少なくなって、淋しい思いをされていらっしゃるのではないでしょうか。施設のすぐ近くまで足を運んでも、ドアを開ける事が出来ない現状が辛く、もどかしい日々です。

カワラナデシコ

シュロソウ

2021年9月15日水曜日

127) 【徒然に】シャレた関係?

前回 126)の「パンチョ先生」を書いている時に思い起こした Ⅰ先生の素敵な言葉があります。今回はそのお話です。

私は在職中に一ヶ月ほど入院し 手術を受けたことがあります。学会誌の編集担当者は私 ただ一人で、入院中も気が気ではありませんでした。月刊誌ですので休刊は出来ず、術後も直ぐに 病院内の公衆電話から職場(事務局)や出版社等への連絡は欠かしませんでした。

それにしても 主治医の先生や職場(学会)の先生方、また友人達にはたいへんお世話になりました。本当に有難いです。兄弟や従姉妹は(みな地方在住)病院近くにウイークリーマンションを借り、交替で看病をしてくれました。感謝しかありません。

さて、その中のお一人 A先生はつい最近まで J大学の学長で、当時は脳外科の教授でした。A先生はⅠ先生(このブログ 27) 番外編「回想法」【 余談 2 】をご参照)の愛弟子であり、脳外科学会の役員でもありました。そのA先生とは私がJ大学にて学会誌の編集に携わって以来の長いご縁です。

ある時、何度か検温にいらっしゃる看護師さん(女優の山本陽子さんによく似た 超美人でした)から「A先生は毎日 あなたのカルテチェックや様子を診にいらしているけど、どんな関係?」と唐突に尋ねられました。

私は真意が分かりかね、言葉に詰まりました。とにかく誤解を生まないように、A先生が講師時代に、私はお隣の教授室 (当時はⅠ先生が教授) で編集業務を行っていた等、細かくご説明しました。冷や汗がでました。

後日、その経緯を恩師 Ⅰ先生にお話しすると一笑に付した後 「バカだなぁ。そんなこと、いちいち真面目に答えんでもよろしい。」と言われました。私は「そうですかね・・。でも、A先生は看護師さん達に評判が良く おモテになるので、へんに誤解されないようにと思って(ご説明したのですが)・・。」と返答しました。

そして、逆に私はI先生に訊ねました。「そのような場合、どのように答えれば よろしいのでしょうか?」と。

I先生曰く「そうだなぁ。まあ、シャレた関係とでも言っておけ!」とのお返事。さすがです・・! 数々の有名人をお相手にされているスター教授は違います。野暮ったい私の頭には浮かばない言葉でした。洒落っ気たっぷり 遊び心満載 のI先生です

私はこのエピソードとその言葉を友人達に伝えましたが、ついでながら、母や兄にも話して聞かせました。すると、同じ血筋の兄は大いに感動しました。「なるほどなー。我々には言えない言葉だなぁ。」と兄。そして「おしゃれな関係か・・。」と。(・・・?私。)

「シャレた関係」と「おしゃれな関係」は全然違います。やっぱり我が兄、見事な野暮天です・・。ともあれ たくさんの方々にお世話になった 感慨深い思い出と言葉です。


ニコライ堂






2021年8月25日水曜日

126) 【徒然に】パンチョ先生

8月 この時期になると思い出す 辛い出来事があります。
もう20年も前のことになりますが、J大学 放射線科の講師 S先生(※通称 パンチョ先生)の水難事故のことです。

※パンチョ:本来の意味はスペイン語でふくよかな男性の意。本名よりは愛称として用いられる。

当時、私はJ大学の脳外科教授室で学会誌の編集をしておりましたが、S先生はそのI教授(当時は学長も兼ね 後に理事長。このブログ 27) 番外編「回想法」【 余談 2 】をご参照ください。)がとても信頼なさっていた先生です。

S先生はもともと脳外科医だったそうですが、重い椎間板ヘルニアを患い 放射線科に転科されていました。I教授はポッチャリとした体格の愛弟子、S先生を親しみを込めて “パンチョ” とお呼びになっていました。

その年の8月末、パンチョ先生は夏季休暇をとり 釣り仲間と3人で浜名湖にいらしていました。台風が来ていたのでしょう。船舶免許を持つ先生が操縦していた船が 事故をおこしたのです。

先生は船が転覆しないように 最後までハンドルを離さず、お仲間たちが無事に船から脱出するまで見届けられたようです。そして先生だけが・・・。痛ましい事故死でした。

実はパンチョ先生は事故の1年くらい前に肝臓がんを患い、経過観察中でもありました。かなり重篤な状態だったパンチョ先生にたいし、I先生は病名を隠すほどでした。それが奇跡的に良くなられた矢先の出来事でした。亡くなられた後 (調べると) あれほど心配したがんは転移もなく消えていたそうです・・。

恩師 I先生のショックは計り知れず、あんなに憔悴した先生を見るのは初めてでした。がっくり肩を落とし 目はうつろ、いっきに歳をとられたかのように 私には見えました。

パンチョ先生はいつもニコニコとされており、院内であっても、教授室でお会いしても、親しげで柔和な微笑みを下さいました。時には ピエロのような おどけた笑顔を向けて下さることもありました。

ある時、パンチョ先生は外来診療を終え、放射線科の医局がある建物に向かう途中、私を見つけると(私が助教授に厄介な頼み事をされた後で 浮かない顔でもしていたのでしょう。)道端に立ち止まり、『どうしたの? 何かあった?』と声をかけて下さいました。

私はにっこり笑い『(気分転換に)これから こちらの彼女と飲みにでも行こうかと話をしているところです。』と伝えると、先生は『医局にビールもあるし、美味しい ‘たたみいわし’ なんかもあるよ。良かったら、医局で飲んだら?』と仰いました。いつもの優しい笑顔で。

出版社のMさんと相談し、私たちはお言葉に甘えることにしました。生スルメやくさや、干しくちこ等など、お酒の肴ばかり。珍味のオンパレードでした! 先生は自ら たたみいわしを炙ってくださいました。先生のお心遣いと初めて口にした ‘たことんび’ (タコの口) の味が今でも忘れられません。もちろん優しい笑顔と共に。

心よりこころより パンチョ先生のご冥福をお祈り申し上げます。    合掌


不忍池















2021年8月15日日曜日

125) 【徒然に】肘折温泉 ー庄助伯父さんとの想い出 その2ー

旅館で借りた下駄をはき、※銅山川沿いをゆっくり散策しました。暫くすると・・在りました!レトロな佇まいのお寿司屋さんが。風情があります。もちろん肘折には一軒だけでした。

※銅山川(どうざんがわ):最上川水系の支流で山形県最上郡大蔵村を流れる河川。
鳥川とも呼ばれる。源流地には、かつて「日本三大銅山」と呼ばれた永松銅 山があり、銅山川の名はこれに由来している。(Wikipediaより)

お寿司屋さんは平日の15時のせいか 閑散としており、もちろんお客は私達二人だけでした。お酒も飲まない伯父が山奥の温泉町でお寿司屋さんを知っているのは意外でした・・。

ただ、思い起こすに 伯父はグルメでした・・。父が怪我をし入院した際、お見舞に上京した伯父は母と私を労って新宿のフランス料理店に連れて行ってくれたことがありました。

当時は母も私もまだフレンチのフルコースなど頂いたことがありませんでした。ナイフとフォークさばきが見事な伯父に 目を見張ったことを憶えています・・。

肘折のお寿司屋さんで 伯父は海軍時代の若かりし頃の青春物語や軍港都市 舞鶴での思い出話をたくさん聴かせてくれました。戦時中で辛いことがたくさんあったはずですが、遠くを見つめ 懐かしそうに語る伯父は次第に浄化されていくようでした。

今でも青年に戻ったかのように生き生きと話す その時の ‘伯父の顔’ が忘れられません。肘折温泉と言えば、私は必ず庄助伯父さんを思い出します。

ついでながら、その時 泊った旅館は目前に朝市が立つ*斎藤茂吉逗留の宿「松井旅館」です。素朴なあたたかい旅館でした。
*斎藤茂吉:山形県上山市生まれの医師であり 雑誌『アララギ』の中心的歌人。

・肘折のいで湯浴(あ)みむと秋彼岸の狭間路とほくのぼる楽しさ
・のぼり来し肘折の湯はすがしけれ眼(まなこ)つぶりながら浴ぶるなり
         【茂吉が詠んだ歌 「肘折温泉と斎藤茂吉」より抜粋】 

今年こそ あの肘折温泉へ湯治に行きたい! 行こうと思うのですが・・。


ヒョウモンチョウ類

ルリシジミ類



2021年7月25日日曜日

124) 【徒然に】肘折温泉 ー庄助伯父さんとの想い出 その1ー

子供の頃から湯治に行くなど 温泉好きの私としては、緊急事態宣言下ではありますが そろそろ温泉が恋しくなってきました。一日も早いコロナの収束を祈るばかりです。

大人になってからも元職場の友人達と「秘湯の会」をつくり、毎年日本各地の秘湯巡りをしておりました。コロナ禍により中断しておりますが、もう15年余りになります。

今回はお気に入りの温泉の一つである 肘折温泉のご紹介とまつわるお話です。
肘折温泉は日本有数の豪雪地帯である山形県最上郡大蔵村にある開湯1,200年の歴史ある温泉です。地蔵権現の教えを信じ 今に伝わる長い歴史があります。

縁起書には肘を折った老僧がこの湯につかったところ たちまち傷が治ったと記されており、近郷の農山村の人々が農作業の疲れを癒す温泉場として、そして骨折や傷に有効な湯治場として賑わってきました。

また、肘折温泉には月山を始めとする出羽三山葉山 両山への参道口があったため 多くの宿坊ができたようです。

私は幼稚園や小学校の頃、毎年夏に両親と共に湯治に行っておりました。空気が良く 川遊びもできる肘折は、小児喘息気味だった私には うってつけの所でした。

社会人になってから、父方の伯父夫婦と両親、そして私の五人で肘折温泉に行ったことがあります。当時は山形駅まで旅館の送迎バスが迎えに来てくれたのです。その時の庄助伯父さんとの思い出話です。

体格のよい伯父は若いころ海軍に属しており、物を書く仕事もしていたようです。晩年は自費出版で本等もを出していました。メモ魔でもあり、いろいろとスクラップもしていました。話題が豊富でした。

伯父は話好きでしたが、息子夫婦は仕事で忙しく、孫も話し相手には幼すぎました。また近くに住む甥や姪達も興味がないのか、あまり熱心に話をきくことはありませんでした。もっぱら東京から訪ねた私が話し相手であり、聴き手でした。

私は昔から人の話を聴くのが好きで、特に年配者の話を聴くのは大好きでした。伯父はとても喜んでくれました。今日(こんにち)、敬聴ボランティアをする下地があったのでしょうか。

さて、伯父夫婦と私達家族は肘折温泉に着くと 先ずひと風呂浴びました。そして伯母と母はお茶を入れ テーブルに果物やらお菓子を並べました。二人はよもやま話を楽しむと、くつろぎ横になり始めました。因みに 父は温泉に浸かり 部屋に戻ると横になってTVを見ていましたが、いつの間にか寝ておりました。

伯父は寛いでいる皆を尻目に、私を肘折の散策とお寿司屋さんに誘いました。暇を持て余していた私に 散策はグッドタイミングでした。でも・・(数十年前のこと)「こんな鄙びた山奥に、お寿司屋さんなんてあるのかしら?」半信半疑でした。


ハナイカダ


ニッコウキスゲ






2021年7月15日木曜日

123) 【徒然に】介護と敬聴

5月末にカズさん(107才 女性)をお世話されている姪御、Tさんからお電話を頂きました。

この一年、ご自身も持病を抱えていて体調が悪いとのこと。その上 娘さんとの意見の相違などで気分が落ち込んでいると仰っていました。お話を伺い 励ますことしか私には出来ませんでしたが、Tさんは感謝して下さり 話を聴いて貰って気が楽になったと仰ってくださいました。

私も早くカズさんにお会いしたいです。どうされているか心配でした。早朝散歩で湯島天神に詣でると、カズさんがいらっしゃる「ゆしまの郷」に足が向いてしまいます。近況は「ゆしまの郷」の家族会の方からのお手紙や写真では分かっているのですが・・。

また、もう一か所 敬聴に伺っているK有料老人ホームの方々のことも気がかりです。やはり早朝散歩で霊雲寺に参った際に、そのK有料老人ホームの前を通ってしまいます。お元気でしょうか。

敬聴活動は私自身も癒されていたとあらためて思いました。人生の先輩方のお話を伺っていると楽しく心も満たされます。敬聴ではお話のみならず、その方に寄り添うことが何より大切。肌感覚やお互いの体温伝達が大事なのですがね。

私の両親介護生活は12年余りでした。仕事を持ちながら、両親を一人で介護するのは なかなかのもの でした。でも振り返るに、自分も年を重ね 当時 両親に向けて言った言葉や行動が自分にも当てはまるようになってきております。

父母は「老いの姿」を見せてくれました。一人の人間の人生、生きざまです。介護は「老い」に対する心構えとその予行演習だった気もしています。無駄なこと等ありませんでした。今は介護をしてきて良かった、有難かったとさえ思っております。

『子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの。』




2021年6月25日金曜日

122) 【徒然に】心にのこる旅:「キエフ・モスクワと北欧」編 その6 ファンレター?

『あら? もう直ぐ夕食なのに何処へいらっしゃるの?』の問いに、

嘘をつくのも躊躇われ、あたりを見回し小声で ムンク美術館に向かう旨を伝えました。すると、やはり・・羨ましがられました。『私達もご一緒したいけど、あなたに迷惑をかけてしまうわね。』

そしてご夫妻は顔を見合わせ『もし可能なら・・、図録を何語でも構わないので買ってきて貰えないかしら。』と懇願されました。私・・引き受けました!

ムンク美術館へは 雨と夕方の帰宅ラッシュのせいで、タクシーで30分程かかりました。美術館には小学校1年生くらいの子供たちが10人位来ていました。お揃いの黄色い雨傘が館内に広げ干してありました。

ムンクの代表作『叫び』や『思春期』『マドンナ』等の暗いイメージで訪れた私は、館内の明るさと穏やかなふんわりとした雰囲気に少し戸惑いました。

そんな中、美術館で新たに出会った作品が『疾駆する馬』です。衝撃を受けました。絵の前で私は動けなくなりました!初めての経験です。真っ白な雪を蹴散らして 目を剥き狂ったように こちらに迫ってくる茶色の馬。飛びのく人。迫力満点で、まるで馬が絵の中から飛び出してきそうでした!

一方 会議室には、対照的に明るい色合いの『太陽』(複製画)が壁一面に飾られていました。後光がさしているように見えました。深遠な画家でした。ムンクは凄いとあらためて感動しました!私はムンクが大好きになりました。

エルミタージュ美術館で不完全燃焼に終わった無念を、私はここムンク美術館で晴らしました!思う存分に鑑賞できました。
そして盛り沢山だった旅も終わり、翌日には帰国の途に就きました・・・。

飛行機の中では、ムンクの図録を依頼した(今度は)奥さまの方から、当時 私がしていた ‘編み込み’ の仕方を教えて欲しいと頼まれました。お孫さんの髪を編んであげたいのだそうです。

お教えしていると、私の周辺に旅の仲間 数人が集まりました。皆さま、熱心に私の手先を見ていらっしゃいます。ツアー最終日 私は「にわか添乗員」から「かりそめ美容師」に変わりました!

帰国の翌日から
私は(都内ですが)三泊四日の出張に出ました。気も張っており、若かったので務めは全うできましたが、さすがに 無事仕事を終え自宅に向かう途中からは、疲れがピークに達しました。ヘトヘトでした。

帰宅すると、玄関で母が笑いながら「たくさん ファンレターが届いているわよ!」と云いました。

「ファンレター?」さっそく 自分の部屋に入ると、なんと 机の上には山積みの手紙(数えたら 20通程ありました!)とハガキが5~6枚、そして菓子折りが3箱 置いてありました!




錦糸公園




2021年6月15日火曜日

121) 【徒然に】心にのこる旅:「キエフ・モスクワと北欧」編 その5 ムンク美術館

北海道のTご夫妻とは 帰国後も連絡を取り合うほど 仲良くなりました。そしてお二人は夕食のみならず 朝食や昼食の時にも 私の席を取っておいて下さるようになりました。

そのうち 他のメンバーに対し私のことを「うちの娘!」と冗談交じりに吹聴しはじめました。メンバーの何人かは真に受け、また 訝しく思われた方々は私にその真偽を確かめにくるようになりました。

そんな中でのオスロ観光です。見学はノルウェー王宮やオスロ市庁舎、そしてヴィーゲラン彫刻公園などでした。足元の悪い階段で、私はかなりご高齢の女性の手をとり(手を繋いで)歩いたところ、他の方々にやきもちを妬かれました。依怙贔屓した訳ではありませんが、まずかったのでしょうか・・。

今回のオスロ観光には私の二つ目の目的である ※ムンク美術館は
入っていませんでした。しかし何としても行きたい場所の一つでした。私はひそかに添乗員さんにどこか途中(ムンク美術館に近いトイレ休憩所など)で降ろして貰えないかと頼んでおりました。

※ムンク美術館:画家エドヴァルド・ムンクの作品や生涯についての資料を展示している、ノルウェーのオスロにある美術館

でも 彼から『あなたがいなくなると皆さんが心配するし、一緒にムンク美術館へ行きたい等と言い兼ねません。一旦 ホテルに着いてから ‘こっそり’ 出かけて頂けると助かります。』とやんわり断られました。

さらに『ホテル到着後すぐに夕食となりますので、あなたの夕食は無しとなりますがよろしいでしょうか。英語は通じますから ホテルからタクシーを呼んで、そっとお一人でいらして下さい。』と言われてしまいました・・。

宿泊ホテルは館内ムンク一色でした。いたるところにムンクの複製画が飾ってあります。国の誉れ。市民から大切にされている画家なのですね。私は急いで
部屋に荷物を置き、すぐにロビーに向かいました。

すると・・、ツアーメンバーのK赤十字病院の院長ご夫妻から声を掛けられました。『あら? もう直ぐ夕食なのに何処へいらっしゃるの?』




2021年5月25日火曜日

120) 【徒然に】心にのこる旅:「キエフ・モスクワと北欧」編 その4 キエフの蚊

翌 2日目はウクライナの首都 キエフ観光です。聖アンドリーイ教会、聖ソフィア大聖堂、キエフ・ペチェールシク大修道院などを見学しました。

ここでも お仲間たちから「トイレはどこかしら?」とか「いま、ガイドさん 何て仰ったの?」そして「次はどこ行くの?」等々 問われるありさまです。にわか添乗員の私は大忙しです!?

お昼にはキエフ風カツレツ(ウクライナの郷土料理で、バターを骨なしの鶏胸肉で巻き、小麦粉、溶き卵、パン粉の衣をつけて焼くか揚げたカツ料理。)が用意されていました。とても美味しかったのですが・・。

尾籠な話ですが、その昼食時に トイレから戻ってきた 艶子さんという70代後半の方から「あなた、早く御不浄(トイレのこと)に行ってらっしゃい。一番奥のよ!」と言われ ビックリしたことを憶えています。

理由を伺うと「あなたの為に 便座シートで(トイレを)きれいに(掃除)してきたから、他の人が使う前に行ってほしいの。」とのお返事でした。なんとも ご親切な?方でした。せっかくなので・・ 、私は無理して行ってきました。

キエフのホテルはオリンピスキ・スタジアムの傍にあり、その夜はサッカーの試合があったらしく、観客の歓声で私は眠れませんでした。おまけにツアー客の中で私ただ一人が蚊に刺され、痒くて眠りが浅かったことも覚えております。

キエフの蚊はカトンボのように大きく しかも貪欲で、私が長袖のパジャマを着ていたにも関わらず その上から刺したのでした。「キエフの蚊、恐るべし!」

翌日は赤く腫れました。なぜ私一人が刺されたのでしょう。若かったからでしょうか? 心優しい旅の仲間たちは心配して下さり、ムヒやオイラックス、また病院の処方薬など、たくさんの虫刺され軟膏を分けて下さいました。さすが旅の達人、用意周到でした!

そして、次の訪問地 憧れのフィンランドで体験した本場のサウナ後は、ますます血行が良くなり、私の腕はさらに赤く腫れあがりました!




2021年5月15日土曜日

119) 【徒然に】心にのこる旅:「キエフ・モスクワと北欧」編 その3 エルミタージュ美術館

さて、第一日目はモスクワ市内観光。私は定番の世界遺産となった赤の広場」でネギ坊主の建築物 聖ワシリイ大聖堂などを写真におさめ、同時に旅の仲間たちのご要望に応え、記念写真のお手伝いもしました。皆さま、積極的かつマイペースです。

ただ、お一方のお手伝いをすると 次々に他の方々もお願いにきます。旧ロシア帝国の宮殿であるクレムリンやレーニン廟でも同様でした・・。

私には今回の旅で二つの目的がありました。その一つがエルミタージュ美術館でした。時間が気になります。(間に合うのかしら? エルミタージュって何時まで開いているのかしら。)気が急きました。

そして・・一時間後、モスクワからアエロフロートに乗り やっと!サンクトペテルブルクに着きました。フライト時間は1時間30分位でした。到着後はホテルに直行し チェックインです。しかし遅々として進みません。お元気だった旅の仲間たちにも疲れが見えはじめました。

添乗員さんに(エルミタージュの)閉館時間を尋ねると「エルミタージュはアジアからの団体客の場合、夕方からの鑑賞になっています。」と涼しい顔で仰いました。そして「白夜だし大丈夫ですよ。」と。曜日により21時まで開館とのことでしたが・・。

ようやく着いた 憧れのエルミタージュ美術館は、宮殿としての建物やその宮殿装飾、美術品は圧倒されるほど素晴らしく 言葉もありませんでした!

特に絵画部門はあまりにも壮観で私は茫然としました。しかし
美術館の鑑賞時間は短く限られており、私は館内地図と照らし合わせながら 目的の作品の所まで必死に進み、名作も逸品も目で追うだけの ‘全集中の10秒鑑賞’。勿体なかったです

イタリア絵画ではレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、そしてラファエロの有名な作品。また オランダ絵画はルーベンスやレンブラントに ゴッホの名作の数々。そしてスペインからはエル・グレコにベラスケス、はたまた ゴヤやピカソの貴重な作品等など。

大好きなピカソ・コレクションは充実しており「青の時代」から「キュビズム」 初期の作品が中心となっていましたが、青の時代の『二人の姉妹』(訪問)を直に観れて私は感激しました! 

ただ、日が陰り 西日除けのカーテンのせいで 室内が薄暗く 見にくかったことを憶えております。その上、鑑賞時間が切迫しており 精神的にもゆとりがなく・・作品をじっくりとは観れませんでした。不完全燃焼です。とても心残りでした。

せめて(最低でも)一日は必要です。さわりだけ観るのは かえって酷だと思いました。次回は個人旅行しかないと私は心に決めました!

本郷給水所公苑








2021年4月25日日曜日

118) 【徒然に】心にのこる旅:「キエフ・モスクワと北欧」編 その2 異国の地下バー

旅のお仲間は 30代の添乗員さんと私(当時。今の私は浦島花子です)を除き、70代・80代の紳士 淑女の方々でした!皆さま 好奇心旺盛でマイペース。健啖家でもありました。 長寿の秘訣でしょうか。

最初の訪問地はモスクワ。到着まではかなりの長旅だったのに、皆さま お元気で疲れを見せませんでした。ホテルに到着後 すぐに夕食でしたが、現地時間で20時を回っていたせいか 豆料理中心の質素なものでした。ビール等もありません。

フライトの疲れもあり、私は早めに退散し 部屋で日本から持参したカップ麺でも食べようと思いました。一方、旅の達人たちは・・、各々 きちんと召し上がっておられました!柔な私とは違います。逞しいです!

そこに添乗員さんがあらわれ、小声で「この会場にはアルコール類はありませんが、地下に観光客向けのバーがあります。ちょっとしたおつまみも。別料金ですがドルもつかえますよ!」と仰いました。

もちろん 私は部屋での淋しい ‘カップ麵 ひとりディナー’ をやめ、異国の地下バーに連れて行ってもらいました!私を含め5~6名ほどの参加でしたが、そこには 何でも・・揃っていました。美味しいものが。「社会主義国って凄い!」と私は妙に感動したものです。

それで味を占めた訳ではありませんが、この晩 ご一緒し 親しくなった北海道から参加のTご夫婦と毎晩 観光地の宿泊ホテル内にあるバーに繰り出しました。最高に贅沢な旅となりました。

蛇足ですが、旅の最終日ヘルシンキでは、3人の両替し残った現地通貨(当時はマルッカ ペンニ)を集めて全て「※アクアビット(Akvavit)」にかえ飲み干しました!

※アクアビット:北欧のお酒でジャガイモを主原料にした蒸留酒。

翌日、第一日目は先ずモスクワの市内観光。世界遺産となった赤の広場に行き ネギ坊主の建築物 聖ワシリイ大聖堂を見て、旧ロシア帝国の宮殿であるクレムリンやレーニン廟などを観光します。

そしてその後は、いよいよレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)にあるエルミタージュ美術館へ。期待が高まりました!



ツルニチニチソウ(蔓日々草)
カニングハム・メモリアルハウス(MFYサロン)







2021年4月15日木曜日

117) 【徒然に】心にのこる旅:「キエフ・モスクワと北欧」編 その1 にわか添乗員!

コロナ禍で思い描いていた生活が一変しました。退職して多少時間が自由に取れるようになり「年に一回くらいは海外旅行を!」と目論んでおりましたが、ここ数年は無理なようですね。残念です。そこで今回は私の ‘忘れがたい旅’ を書かせて頂きます。

心にのこる旅と言えば 先ずマチュピチュをあげざるを得ません。回り道になりますが、マチュピチュに少し触れておきます。

これまで一番魂が揺さぶられた旅は 世界遺産の「空中都市マチュピチュ」です。さすがインカ帝国の遺跡、息を呑むほどでした! 特に マチュピチュ山から見下ろす「マチュピチュ遺跡」は黄金色につつまれ、神々しいオーラを放っていました。それまでの人生観が変わるほどのです。

前置きが長くなりましたが、今回は ‘別の意味で’ 印象深く忘れられない「キエフ・モスクワと北欧の旅」の話をいたします。

在職中にやっと頂いた夏季休暇で、7月中旬から12日間の旅行だったと思います。私はツアーに一人参加しました。早めに成田国際空港に着き、指定された搭乗受付カウンター付近を見渡しましたが、参加者らしき人は見当たりません。ご高齢の方が数人 屯(たむろ)しているだけでした。

早く着き過ぎたかと思い、辺りをうろうろしておりました。一周して元のところに戻ると、関西方面から合流の参加者を引き連れた 男性添乗員さんが、ツアー名と旅行会社名を書いた旗を持って現われました。うん? その参加者たちはかなりご高齢の方々ばかりです・・。

添乗員さんは私を見て「○○さんですか、こちらです。皆さん、こちらに集まって下さい。」と大声で仰いました。すると、先程から屯していたご高齢の方々も集まりはじめました。総勢・・40名くらいでした!平均年齢は75歳くらい。当時、私は30代前半でした。

やっと・・状況が読めました。私のお隣に並ばれた初老のご婦人は「あなたもご一緒? それは良かったわ。よろしくお願いしますね!」とにこやかに仰いました。他の参加者たちもこちらを見ています。

その時から、私は「にわか添乗員」になりました。


鳥越神社


クロッカス


2021年3月25日木曜日

116) 【徒然に】桜の季節に -看護師 関口さん-

晩年 入退院を繰り返した父の闘病生活で一番 思い出深いのは、看護師の関口さん(仮名)の親切さです。娘として今でもこころから感謝しております。

父は感謝の気持ちを忘れない人でした。何事も当たり前だとは思わずに、周りの人に対して「ありがとう」という感謝の言葉や「ご苦労さま」という労いの言葉を伝える人でした。

入院時にも、清掃員の方が病室にゴミ収集に来ると「ありがとう。ご苦労さま。」と必ずお礼を言っておりました。酸素マスクを装着している時でさえ、その方へ微かに目をやり 少し片手を上げて感謝の意を表すのです。心をうたれ 私はあらためて父を尊敬したものです。

その父はCOPD(慢性閉塞性肺疾患)のため、常に痰が絡み ほぼ寝たきりなので、吸引しなければならなくなりました。吸引をちょっと怠ると、痰が上顎にくっつき 乾いて瘡蓋(かさぶた)になってしまうのです。

或る日 いつものように、私が仕事帰りに入院している父のもとを訪れ、身の回りの世話を終え 洗濯物を抱えてエレベーターホールに向かっていると、後ろから 顔なじみになったベテラン看護師の関口さんが 小走りに追って来ました。夜勤のようでした。『娘さん、ちょっと来て手伝ってくれませんか!』と。

何事かと思い 慌てて父の病室に戻ると、看護師さんが二人がかりで 上顎の粘膜にくっつき、瘡蓋(かさぶた)となった痰を強引に剥がそうとしているところでした。

父の口まわりは血だらけです。父は痛さで顔を歪め苦しそうです。必死に看護師さんの手をふり払おうとしておりました。声にならない抵抗でした。ビックリしたのと同時に私は涙が溢れました。

『お父さまを我慢させてください!』と言われました。でも・・「私でも瘡蓋を痛み止めなしに剥がされたら我慢など到底出来ない」と思いました。

看護師さんは「瘡蓋を取り除かないと、その瘡蓋がはがれ、気道に詰まり窒息する(してしまう)かもしれない」と仰いました。

私は父を宥め(なだめ)その手を両手で握りました。『痛いよね、ごめんね。ごめんね。少しだけ・・我慢してね。』と涙ながらに説得しました。すると驚いたことに・・、父はおとなしくなりました。看護師さん達はホッとされたようです。でも、私はかえって・・、悲しくなりました。落ち込みました。

その一件以来、関口さんは耳鼻咽喉科の先生のところに行き、痰(瘡蓋)をとかす薬などを父が大好きな ‘棒付きキャンディ(ChupaChups)’ に塗れないか、或いは何か良い方法はないものかを相談して下さったそうです。

また 或る時は、ベッドから動けなくなった父のために、病院の敷地内に咲いた桜の枝を折り(そんなことをして大丈夫だったのでしょうか。叱られなかったのでしょうか。私は心配でした。 )父に見せて下さいました。ベッド横のテーブルには可憐な桜の花が飾ってありました。

その後 転院し父が亡くなった3年後、今度は同じ病院に母が入院いたしました。診療科が違うので父とは別の階でしたが、もし 関口さんがまだ病院に勤務されているのなら、是非 お礼を申し上げたく 母の担当看護師さんに尋ねてみました。(公立病院なので別の病院に移られたか、或いはご退職されたか、自信はありませんでした。)

すると嬉しいことに、父がお世話になった階にまだお勤めされているとのことでした。何度かそのフロアを訪ね、三度目にやっと関口看護師さんにお会い出来ました。でも、既に3年も経っていましたし、数多い患者の名前など覚えてはいらっしゃらないと思いました。が・・、

『ああ、あの○○○○さん(何とフルネームでした!)の娘さんですよね。お父さま、良い人だったもの。わたし大好きでした!』とにこやかに仰いました。私は胸がつまって涙がこみ上げてきました。

小石川植物園

法真寺にて