2022年3月15日火曜日

139) 【徒然に】地蔵菩薩霊験記

『地蔵菩薩霊験記』※2 の原文を読むことが私の課題となりました。奥健夫先生からのアドバイスです。

※2 『地蔵菩薩霊験記』:平安時代の仏教説話集で、三井寺の僧実睿(じつえい)撰と称する2巻本と、さらに実睿撰と称する巻三、また良観 (16~17世紀の人であるが伝不明) 撰と称する巻四~十四を加えた14巻本が存在する。

奥健夫先生は仏教彫像の研究において私が最も尊敬する方で、その先生から「『地蔵菩薩霊験記』は、地蔵菩薩を考える上で示唆に富む文献と思います。たいへん面白い説話集なので 是非ともご覧になってください。」という貴重なお言葉を頂いたのです。

先生は『仏教彫像の制作と受容―平安時代を中心に―』で第31回 2019年度の*國華賞を受賞されました。(*國華賞とは1989年に岡倉天心らにより生まれた雑誌『國華』の創刊100年を記念して創設され、日本および東洋の美術についての優れた研究に贈られます。)

その『仏教彫像の制作と受容―平安時代を中心に―』は『地蔵菩薩霊験記』を読む上でも たいへん参考になりました。また私の大好きな 京都 六波羅蜜寺の運慶作 ‘地蔵菩薩坐像’(通称、夢見地蔵)や寂光院の焼けこげた ‘地蔵菩薩立像’ についても かなり詳しく言及されています。文献も豊富で 奥先生の御研究の集大成とも言うべき素晴らしい研究書でした。

然しながら『地蔵菩薩霊験記』の方は全て漢字で書かれており、私は難しくて手を付けられずにおりました。当時は仕事も忙しく 時間的にも精神的にも余裕がなかったためでもあります。

そして・・、何と10年もの歳月が経ってしまいました。それが最近、不意に頭をよぎったのです。今年になり、やっと私は辞書を引きながら読み始めました。

内容は地蔵を安置する寺院の縁起や地蔵信仰によって得たご利益などで、阿弥陀や観音霊験記とあまり変わりませんが、地獄から蘇生した話が多いのが地蔵菩薩霊験記の特徴のようです。

【地蔵】より

… 平安時代後期、民間にも仏教が広く浸透するにつれて地蔵信仰は大いに発達した。11世紀の中ごろ三井寺(園城寺)の僧実睿が民間地蔵説話を集成した《地蔵菩薩霊験記》は後に散逸したが、その説話の多くは《今昔物語集》巻十七に再録されており、当時の民間地蔵信仰の特色をうかがうことができる。

功徳の集積が容易な貴族たちの間では、死後の地獄の恐怖がさして切実ではなく 地蔵への関心が薄いのに対し、浄土往生の功徳を積むすべのない民衆の間では、〈地獄は必定〉という深刻な地獄観の下で、地獄に入って人々の苦しみを代わり受ける地蔵の信仰が発達し、〈ただ地蔵の名号を念じて、さらに他の所作なし〉といった地蔵専修さえ成立したのであった。…

地蔵菩薩霊験記という書物は、平安時代から鎌倉初期にかけて成立したものに、室町時代や江戸初期を通じて増補されたもので、それぞれの時代における地蔵信仰の実態を伝える きわめて貴重な記録として注目されるものであった。

読みおえるまで まだまだ時間がかかりそうです。しかし この際 ゆっくりと楽しみながら解読したいと思っております。 


西表島のサガリバナ


















2022年2月25日金曜日

138) 【徒然に】クラス会は寂光院で

コロナ禍により全く旅に出られなかった私ですが、昨年末の愛媛旅行でその醍醐味と懐かしい記憶が蘇りました。久しぶりに霊場巡りをしたからでしょうか。それは仲良しクラス会を京都の「寂光院」に参ることで叶えた思い出です。

10年ほど前、私は仏教彫像の第一人者である 文化庁の主任文化財調査官、奥健夫先生の講義を受ける機会を得ました。そして先生から「地蔵菩薩に関心があるのなら※1 寂光院 (天台宗の尼寺) の旧本尊 木造地蔵菩薩立像 (
六万体地蔵菩薩の拝観と※2『地蔵菩薩霊験記』をお読みになることをお薦めします。」とのアドバイスを頂いたのです。

※1: 寂光院の本堂は 2000年5月に放火され全焼。本堂に安置されていた 重要文化財の(旧)本尊の木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代初期の作)も焼損した。しかし真っ黒に焼けこげた本尊(像高256.4センチ)の胎内から、多数の地蔵菩薩像を納めた桐箱がほぼ無傷で 本尊に守られるように奇跡的に難を逃れた。

その後 この被災した地蔵菩薩は劣化を防ぐために3年がかりで樹脂を塗られ、収蔵庫に保管された上で 重要文化財指定も継続されている。そして現在は本堂よりも高台にある収蔵庫に安置され、特定日のみ一般に公開されている。

文化庁は日本に所在する建造物、美術工芸品、考古・歴史資料等の有形文化財のうち、歴史・芸術上価値の高いものや学術的価値の高いものを、文化財保護法に基づき国が指定した文化財を重要文化財とし、その中でも世界文化の見地から価値が高いものを国宝に指定しその保護を図っている。

私は先生からお話をお聴きし、寂光院の旧ご本尊、真っ黒に焼けこげた「地蔵菩薩立像」を是非とも拝観させて頂きたいと思いました。しかし拝観できるのは
特定日のみです。残念ながら、その年の特別公開は一日違いで既に終了していました。拝覧は翌年までお預けとなりました・・。

翌年はしっかり特別公開日を調べ上げ 京都に行く準備は万全でした。そんな時、中学校の仲良しクラス会の話が持ち上がりました。私は事情をつたえ 
欠席の返事をしました。すると、友人達は一緒に京都に行きたいと言い出しました。「一緒に京都に行って拝観し、美味しい京料理を頂くクラス会でも良いのでは」と。

というわけで、少し遠出のクラス会となりました・・。ただ 私のマニアックな想いに付き合って頂くことには少々気が引けました。交通費もかかりますし、せっかくの京都なので 一泊すること等も考慮すると更に旅費が嵩みます。しかし・・、友人達はみな ‘乗り’ でした!

そして・・寂光院。旧ご本尊で真っ黒に焼けこげた 重要文化財の「地蔵菩薩立像」は、厳重に管理された収蔵庫 (室温20℃前後 湿度50〜60%) の中で凛として立っていらっしゃいました。威厳がありました。対面した瞬間、そのオーラに圧倒され私は息をのみました。胸が詰まり ただただ涙が流れ落ちました。

後に続いた友人たちの誰もが言葉を失い 茫然としていました。涙したり、目をしばたたかせていました。心に残るクラス会となりました。

焼けこげた「旧本尊 地蔵菩薩立像」が特別に重要文化財として継続されたいきさつを「歴史・芸術上の高い価値や学術的な価値を失っても、人びとの深い信仰の対象であることは 充分に重要文化財としての意義があるため。」と奥先生は仰いました。とても深い言葉です。重みがありました。

(※2『地蔵菩薩霊験記』については 次回 139)にて書かせて頂きます。)

大洲和紙で作った桜鯛のブローチ 特注 (とおん舎)


2022年2月15日火曜日

137) 【徒然に】愛媛松山の道後温泉

あこがれの道後温泉本館は、平成31年1月15日~(令和6年12月まで)一部営業しながらの保存修理中で、鮮やかなブルー地に2羽の白鷺が描かれた 工事用素屋根テントで覆われていました。楽しみにしていたのに・・とても残念でした。

道後温泉は愛媛県松山市に湧出する温泉で、日本三古湯の一つと言われています。その存在は古代から知られ 万葉集巻一にも記され、また夏目漱石の小説『坊つちやん』にも描かれ 愛媛県の代表的な観光地です。 

本館は道後温泉のシンボルであり「神の湯」に代表される温泉施設です。そして日本の公衆浴場として 平成6年に初めて国の重要文化財に指定されながら、博物館化せずに 現役の公衆浴場として営業を続けていることが素晴らしいです。

神の湯本館は、道後湯之町初代町長の伊佐庭如矢が 明治27年(1894)に改築した木造3階建てで、大屋根の中央にギヤマンを使用した塔屋 (振鷺閣) を載せ、その上に道後温泉ゆかりの白鷺が据えられて 西洋の技法を取り入れたトラス構造を用いた壮麗な三層楼の本館となっているそうです。

そして明治32年に桃山時代の様式を模して造られたという又新殿も(日本で唯一の皇室専用浴室だそうですが)今回の旅では観覧できませんでした。(*令和4年1月20日より一般観覧を再開したようです。)

他にも「神の湯」をはじめ、雑誌でよく取り上げられる「二階席の大広間(休憩室)」も利用できず※「坊っちゃんの間」も見学できませんでした。

※「坊っちゃんの間」: 道後温泉本館改築後の明治28年に松山へ赴任した夏目漱石が、その年の10月に正岡子規と利用したといわれる個室 (本館三階個室の北西の角部屋) で、昭和41年に夏目漱石の娘婿である文人・松岡譲氏により命名された。

今回、私が入浴できたのは「霊(たま)の湯」。神の湯に比べるとこぢんまりしているそうですが、最高級の花崗岩である庵治石や大島石を使った浴室に、壁面には大理石を使用するなど高級感があふれる浴室となっていました。

温泉好きな私としては道後温泉は憧れでした。私は仲間たちと名湯・秘湯を含め、生まれ故郷 山形の銀山温泉、長野の七味温泉や中房温泉、そして富山は大牧温泉、和歌山の白浜温泉や兵庫の有馬温泉と城崎温泉、さらに大分の別府・湯布院温泉など等には既に訪れておりました。

道後温泉の泉質は単純温泉でした。岩手の大沢温泉(アルカリ単純泉)や長野の高峰温泉(炭酸水素塩温泉)と同じくらいに 肌に優しい化粧水のような温泉水で、過密スケジュールの旅ゆえ 入浴時間は限られていたものの 私は満ち足りた気分になりました。
 


来島海峡大橋

2022年1月25日火曜日

136) 【徒然に】四国今治の「仙遊寺」

仙遊寺は作礼山の山頂近い 標高300mの高台にあり 今治の市街地を眼下に望めます。また瀬戸内海に浮かぶ島々や平成11年に開通した「しまなみ海道」等も一望できる眺望豊かな地にありました。

ここは四国八十八箇所の第58番札所であり、創建が七世紀後半の高野山真言宗。本尊は千手観世音菩薩で開基は越智守興です。

とにかく伝説の多い寺で、奈良時代にかけて現在の寺名「仙遊寺」の由来ともなった出来事がありました。天智天皇の御代の頃から「阿坊仙人」という修行僧が、養老2年まで約40年間お寺に住み、諸堂を整えたと言われています。

しかし その後 忽然と姿を消し その様子がまるで雲と遊ぶかのようだったとのことから、のちに「仙遊寺」と名付けられたと伝えられています。

また、仙遊寺には「阿坊仙人の伝説」の他、竜女が海から竜登川を伝って作礼山に登り、一刀刻むごとに三度礼拝して 何日もかけて千手観音菩薩像を彫ったという「竜登川と観音様の伝説」や「ごろべえ坂の伝説」また「犬塚池の伝説」など 多くの伝説があります。

その仙遊寺へは歩き遍路の場合、山門をくぐり お寺の参道を進むのが順路なのですが、これがなかなかの難所でした。山門からがお寺の境内となるため ある程度は整備された石段道ではあったのですが・・、かなり急勾配でした。

山門から本堂までの距離は約400m、標高差約40mの急な山道を登りきらねばなりません。一緒に付き合ってくれた仲間たちも息を切らしていました。しかし
いたる所で にこやかな微笑みを浮かべたお地蔵さまや石仏が私たちを励ましてくれました。

そして頑張って登った甲斐があってか、境内から眺めた瀬戸内海の景色は最高でした!

仙遊寺の納経所は本堂の中にありましたが、墨書は 以前 浅草に住んでいたという70代の男性がして下さいました。大学で教鞭をとっていたというその方は 
※納経帳の墨書について説明して下さいました。(一応、私はお遍路をしておりますので理解しておりましたが。)

※納経帳には「奉納」の文字に加え、「本尊を表す梵字」と「本尊の名前」そして「札所名」を墨書してくれます。さらに、札所番号の印と本尊の印、また札所の印(ご朱印)を押してくれます。四国霊場では日付は入れません。

因みに、墨書はご住職などお坊さんが書かれることもありますが、今回のように、いわゆる「納経書き」として雇われている人が書かれることもあります。

私はちょっとした登山の程よい疲れと清々しい気持ちで 御朱印を頂きました。












2022年1月15日土曜日

135) 【徒然に】カオスの世界、四国松山の「石手寺」

今回の愛媛の旅でもう一つ果たしたいことがありました。それは愛媛近郊の霊場巡りです。私は学生時代から神社仏閣巡りを趣味としております。

納経帳を片手に参ったのが石手寺。石手寺は日本最古といわれる道後温泉の近くにある真言宗豊山派の寺院で、本尊は薬師如来、開基は行基です。

四国八十八箇所の第51番札所で、遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもあります。境内はとても広くて、殆どの堂塔が国宝や国の重要文化財に指定されています。

国宝の仁王門は文保2年(1318)の建立で二層入母屋造り本瓦葺き。また本堂をはじめ、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天(鬼子母神)堂、護摩堂等などが重要文化財です。その上「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘もあります。ここは四国霊場 随一の文化財寺院なのでした。

さすが真言密教の寺 石手寺はぞくぞくするような怪しいお寺でした。映画のセットのようでもあり 度肝を抜かれました。しかしご縁があり、私は二日続けて参ることになりました。

一日目は、閉門時間(納経所 受付時間)すれすれの17時10分前に参詣しました。建造物に興味を惹かれるものの、お納経時間が迫っており駆け足になり、冬なのに汗だくでした。しかし、御本堂(ご本尊様)と大師堂(お大師様)にはお参り出来ました。

そして翌日、仲間たちから「自由行動」の了解をいただき、前日は時間が少なく 心残りだった石手寺に 私はもう一度 参拝させて頂くことにしました。文化財である建造物を一通りみて、その後は地底洞窟のマントラへと足を踏み入れました。

そこは長い暗闇のトンネルを歩きながら、真言密教で説く二つの世界、すなわち胎蔵界と金剛界を体感できるというものでした。洞窟に入ると道が二つに分かれており、直進すれば 胎蔵界ゾーンから金剛界ゾーンを経て 山の裏手の車道に出ます。

一方、枝分かれしていた右側のトンネルに入ると、こちらの方が裏山方面の道よりずっと古くからあったものらしいのですが、灯りらしい灯りのない空間は ちょっと薄気味悪かったです。

壁際に 四国八十八カ所霊場の石仏(お地蔵さん)が並ぶ長い通路を経て、弘法大師が檻の向こうで、梵字をバックにたくさんの仏像に囲まれ鎮座されている 洞窟最奥部の妖しげな空間に着きました。「弘法大師修行場」とのことでしたが、そこは全くのカオスの世界。廃墟のような乱雑なエリアでした。

そして 洞窟前で掃き掃除をしていた若い僧侶によると、もう一箇所 マニアックな古い洞穴(穴地獄の祠のことでしょうか。)があるとのことです。私は怖いもの見たさで覗いてみたくなりました。

その他、石手寺には2016年2月6日放送の「ブラタモリ」で紹介された、道後温泉の優待券である石手寺制札(重文)等も石手寺宝物館に貯蔵されているそうです。

石手寺は見どころ満載でした!その古い洞穴と今回 時間の関係で回りきれなかった「弥勒堂」や「訶梨帝母天堂」そして 宝物館を訪ねに 私はもう一度 石手寺に参りたいと切に思いました。








2021年12月25日土曜日

134) 【徒然に】伊予内子の和蠟燭と洋画家 高島野十郎

伊予内子の大森和蠟燭屋さんに行ってきました。念願でした。今回の愛媛の旅で訪れたかった場所の一つです。

内子には大江健三郎氏の生家があり前々から興味がありました。そして内子の名産品である 江戸時代から続いている和蠟燭は、是非ともその製造過程を見学したいと思っておりました。木蝋の精製の途中でできるのが生蝋(きろう)。この生蝋をつかってできるのが和蝋燭です。

和蝋燭の灯りは、ほのかであり優しい色合いです。周辺にゆたかな時間がながれる気がしました。 炭火でゆっくり蝋をとかし、一本一本、手間と時間をかけて作るそうです。職人さんの完全な手しごとです。蝋燭はうすいベージュ色。心がなごみます。

私がこの和蝋燭に興味を持ったきっかけは「蝋燭の画家」として知られる洋画家・髙島野十郎(たかしま・やじゅうろう 1890-1975)を知ってからです。

20年ほど前に 私は和太鼓奏者の林英哲氏が※高島野十郎をテーマに作曲した組曲『光を蒔く人』を聴きました。舞台に野十郎の「蝋燭の絵」を映し出し 林英哲氏が和太鼓を叩いたのです。衝撃的でした! 以来 高島野十郎は私の大好きな画家の一人となりました。

※高島野十郎は一心に写実を追求し 隠遁者のような孤高の人生を送りました。自らの理想とする絵画をひたすら求め続けた生涯です。

『雨 法隆寺塔』など 数々の代表作がありますが、トレードマークともなった『蝋燭』(初期から晩年まで描き続けた連作)は、彼が「蝋燭の画家」と称され 他の追随を許さない卓越したものです。

サイズは 殆どがサムホール (約25×16㎝)という極めて小さい画面であり、その中心に「一本の蝋燭」が描かれています。ただ 炎の色合いや輝き また軸の太さや長さはそれぞれ異なり、ひとつひとつが独特の雰囲気を醸し出しています。

その「蝋燭」の作品は 個展で発表されることがなく、親しい友人や知人に感謝の気持ちとともに手渡された贈り物であったそうです。

一度、高島野十郎の「蝋燭 23点」が一堂に会した展覧会が 久留米の石橋美術館 (2016年10月1日より久留米市美術館に移行) で開催されたことがありましたが、私は仕事で行けませんでした。とても残念な思いをしたものです。


以前から私は 高島野十郎が描いた「蝋燭」は (内子の) 和蝋燭だろうと推測しておりました。和蝋燭ならではの たえず変わる ‘オレンジ色の炎のかたち’ と ‘ゆらぎ’、そして荘厳な美しさ 等など。今回 現物を手にし、それが確信に変わりました!

織部焼 一海窯の盃

大森和蝋燭

六代目・大森太郎氏

2021年12月15日水曜日

133) 【徒然に】司会と朗読

先日、文京シビックホール(スカイホール)での特別公開講座「人類と感染症の歴史 ~ペスト・コレラ・インフルエンザ~」の司会を仰せつかり 無事に終えることが出来ました。講演はおかげさまで大盛況でした。

然しながら 朗読と司会の伝え方は(頭では分かっていたのですが)本当に ‘別物’ だと実感しました。作品の ‘世界観’ というか ‘イメージ’ を伝える朗読と催し物の進行役で傍役である司会者の伝え方は全く異なりました。

司会者は会を円滑に、またお客様には正確で分かりやすく伝達することが求められます。

今回が初司会だった私は、当日 先輩方にアドバイスをお願いしました。すると「声のトーンは少し上げたら。」とか「マイクの位置は下げた方が・・。」等など。また着用するマスクによって聞こえ方が異なると言ったご指摘を頂きました。

私は原稿を頭に入れ「お客さまのお顔を満遍なく見ながら伝えよう・・」と臨んだのですが、「原稿は手に持ち、時々 その原稿に目を遣る感じの方が良い」と、リーダー(某テレビ局の元重役)からアドバイスを頂戴しました。難しいものです。

そして講演中には ご高齢の講師が 突然 マスクを外して話されると言うハプニングが起きました。ご来場者には軽くお断りされた上での行為でしたが。数名での打ち合わせ時には 全く仰っていませんでした。

区側の担当者は狼狽え、司会者の私に「(講演終了後)ご来場の皆様にお詫びとご説明をして欲しい」と頼まれました。いきなりの難題、臨機応変な対応が必要となりました。(何とかクレームもなく無事に乗り越えましたが。)

一方、朗読の方は必ずしも「内容をしっかりと伝達する」ことが大事ではありません。語り手の感性というか読解力、イメージを表現することが求められます。ゆえに、伝え方は司会とは全く異なります。

朗読の目標を
「健康のために 楽しく音読をしながら朗読に近づける」や「誰かのために 読み聞かせをしながら聞き応えのある朗読に近づける」、そして「聴く人の心にしっかり残り、感動を生む芸術を目指す」と仰った方がいます。奥が深いです。

そんな中 私はちょっと変わった「朗読会」を企画中です。今回は ‘誰かのための朗読’ とか ‘感動を生む芸術的な朗読’ ではなく、想いを伝え 共感して頂ける朗読会にしたいと考えております。「飛び入り参加もあり(試案)」等、内輪の楽しい会です。

そんなのは ‘本来の朗読会ではない’ とお叱りを受けそうですが。さて、どうなりますことやら・・。

日枝神社

レンギョウ