2021年2月15日月曜日

113) 脳外科医 まこっちゃん 【追悼】

まこっちゃんが昨年10月に亡くなりました。まだ60才そこそこでした。

元職場の同僚から訃報のご連絡を頂きました。「あの、まこっちゃんが・・・?」私は呆然とし何度も文面を読み返しました。とても信じられませんでした。

最後にご一緒したのは、2018年10月 大阪の学会だったと思います。私は事務局のメンバーと反省会という名の夕食会に参加しておりました。そこに まこっちゃんからのメールです。もう20時30分を回っておりました。「美味しい店を見つけた。今から出てこられない? 一緒に飲もうよ!」と。

私のお腹はいっぱいでしたが、「(こんな時間に連絡が来るとは)何かお話でもあるのかな?」と思い、重い腰を上げて指定されたお店に向かいました。

瀟洒なお店の奥の席にまこっちゃんはひとり座っていました。心なしか少し寂しそうでした。既に瓶ビールが一本空になっており「後から、○○さん(学会の運営会社の方)も来るからね。」と言いながら、いきなりノートパソコンを開き始めました。

お父さまが亡くなられたとのことでした・・。PC画面にはM大学の小児科教授だったという 白衣姿の優しそうなお父さまが映っていました。とても穏やかでハンサムな方でした。お父さまのご友人達が、その業績を30分程のビデオにまとめて下さったそうです。一緒にみせて頂きました。まこっちゃんの解説付きで。

まこっちゃんは目を赤くし 目を潤ませながら「親父はすごい!」と仰いました。息子として、お父さまが大学病院で診療している姿や学会発表の様子などは見たことが無かったそうです。いささか興奮気味でした。

そして・・仰いました。「人は亡くなった時にその真価が問われるんだよ。どのくらいの人が葬式に来てくれたかだよね。」と。私はその言葉が頭から離れませんでした。そして今、胸に突き刺さります。

このコロナの時代でなかったら、まこっちゃんの葬儀にはどのくらい大勢の方々が参列されたかと思うと涙をぬぐえません。胸が締めつけられます。

私は退職してから一年半余りになります。まこっちゃんからは退職後 何度かご連絡を頂いていたのに、いつも私の都合がつかずお会い出来ませんでした。悔やまれます。

まこっちゃんはT大出身の脳外科医です。腕がよく とても優秀ですが、何より情にあつく 人間性がピカイチでした。全然 偉ぶらずユーモアがあり、先輩や後輩や部下の面倒見のよい方でした。また学閥を超えた交流もお持ちで、何人かの先生をご紹介して頂きました。

都立病院の脳外科部長をされていて、看護師さん達にも支持され 慕われていました。年に数回 看護師さんや検査技師の方、また事務の方々にもお声をかけ、新年会をはじめ、お花見やバーベキュー、また忘年会等などを催しておられました。バーベキューには*馴染みのお寿司屋さんご夫婦もいらしてました。

私も何度かお誘いを頂き ご一緒させて頂きました。食通で美味しいもが大好き。まこっちゃんはそれを皆で分かち合いたいのです。特にワインには目がなく *お気に入りの寿司屋さんにはイタリアから取り寄せた 白ワインを特別にキープしてもらっていました。

兎に角 まこっちゃんはよく連絡を下さり、私は何度も国分寺まで足を運びました。雪の中 看護師さん等と4人での土曜寿司ランチは、楽しく美味しかった思い出があります。

学術総会中にもお食事(飲み)に誘って頂き、まこっちゃんの同窓で仲良しの先生方とB級グルメも楽しませて頂きました。先生方は高級料理など食べ慣れていらっしゃるせいか、豪華な会長招宴の晩餐よりも、気が置けないお店の料理の方がお口に合う(?)ようでした! 

しかし、私にとっては どちらも捨てがたく迷うところでした。「8:10 pm ロビー集合!」と、まこっちゃんから 会長招宴の真っ最中に メールで呼び出しをかけられ、私はメインディッシュである豪華なステーキに後ろ髪を引かれながら、待ち合わせのロビーへと向かうのでした。(今となっては懐かしい思い出です。)

何故あんなに良くして下さったのでしょうか。私は単なる学会誌の編集担当者なのに・・。ただ まこっちゃんは学会誌の編集委員もされていました・・。査読はそれほど早い方ではなく、私は何度も催促の電話をおかけしておりましたが。

脳外科の先生方は通常の診療や手術、そして時には大学での講義などもあります。さらに様々な小学会やセミナーもあり、論文の査読はたいへんな ご負担だったはずです。まこっちゃんは遅くても 丁寧な査読をして下さいました。

昨年、一昨年は、まこっちゃんが会長である学会を多く抱えていらっしゃいました。私はお邪魔をしないように 落ち着いてからご連絡をさせて頂こうと思っておりました。ところが、このコロナ騒ぎです。少々 疎遠になりました。時間が経ち過ぎました・・・。

2019年5月18日0:56分:まこっちゃんからのメール「今日の挨拶良かったよ」
これは、パシフィコ横浜での学会で 120名のお偉い先生方(教授や病院の部長先生)の前で私が述べた ‘退職の挨拶’ に対してです。 

その後も 最高級のホワイトアスパラを出張先の札幌から送って下さいました。私は例年のごとく 山形からさくらんぼをお送りする手配をしておりましたが、先生は札幌の学会から そのままNYでの学会に行かれ、7月も10日程 過ぎてしまいました。残念ながら、さくらんぼの出荷時期はすでに終わっていました・・。

そして最後のメールは2019年12月7日17:08分です。国分寺のお寿司屋さんでの「カニの会」のお誘いでした。総勢12名位とのこと。でも・・、残念無念。私は熊本・鹿児島の坂巡検があり伺えませんでした。

そのお返事は「遅かったか。。」「じゃまた次回」で終わっています・・・。

先生から頂いた たくさんのSMSを私は未だ消せずにおります。
こころより、心よりご冥福をお祈り申し上げます。                          合掌                             

湯島天神



2021年1月25日月曜日

112) 敬聴は必要! いつでも どこででも出来る

こんな時代だからこそ、たくさんの人達が傾聴を必要としている気がします。

施設に入居されている高齢者の方々のみならず、身近な友人であれ、知人であれ、若い人達だって心のうちや痛み、また やりきれなさ等を誰かに聴いて貰いたいと思っているのではないでしょうか。

あらためて「気づき」がありました。最近に親しくなった知人の話を伺った時です。敬聴はいつでも、どこででも出来るものなのですね。

知人は「難病をかかえ入院されている姪御さんの話をされました。姪御さんは遠方にいらっしゃり、何の力にもなれない、祈ることしか出来ないと仰いました。とても歯がゆい思いをされているようでした。

長い時間ではありませんでしたが、私も(もちろん)敬聴を意識した訳ではありませんでしたが、知人に そのお話に寄り添い、こころを傾けてお話を伺いました。その夜、彼女から『お話をきいて頂いて、少し気が楽になりました。』というメールを頂きました。

私がお話を伺ったことにより「相手のこころが少しでも軽くなった」のなら何よりです。聴かせて頂いた方も嬉しいです。聴くことしか私には出来ませんでしたが。

大きく構えるのではなく、日常でも傾聴が必要な場面はたくさんあると思いました。私自身だって友達や知人等に傾聴して頂いているのだとあらためて気づきました。‘いまさら’ ではありますが。

最近かかった病院で、こちらの話をきいて下さらず、(怪我の)現状を説明して下さらない医師と出会いました。ただ『大丈夫!』だけの言葉では、なかなか納得出来ませんでした。「どこがどう大丈夫なのか」を話して欲しいのです。自分の気持ちを伝えられず、もどかしい思いをしました。

私が尊敬している恩師 故 I先生(このブログ 27)を参照)は『医師たるものは、ラビットマインドを持って患者と向き合わなければならない。』と、医局員たちに指導されていました。患者のこころと言葉に敏感になれと言う意味です。まさに傾聴ですね。名言だと改めて思いました。

相手(この場合は患者)の言う言葉に耳を傾け、その問いに答えるのもお仕事だと思います。誠意だと思いました。聴くことの大切さをあらためて 身に沁みて感じました。どんな場面でも、そこに相手がいるかぎり ‘傾聴(敬聴)’ は必要だと私は思います。


天狗人形


2021年1月15日金曜日

111) 最年長の友 ふくさんと最年少の友 トモ君のお話 その3

それから ふくさんとの、いや ふくさんご一家との交流が始まりました!

ふくさんは、趣味では能もたしなむ 才媛の一人娘さん(国家公務員の中でも難関の職種につき、当時は管理職)との二人暮らしでしたが、その家族の一員として 片仮名で「フク」と名づけられた愛犬も一緒でした!

とにかく いろんな人々が寄り集う家でした!役者さんがいたり、ベトナムの若い女性たちが見えたり。お二人はベトナムの子供たちの里親にもなられていました。他国の方の面倒を見るのは並大抵のことではありません。ご立派だと感動しました。

私も月に1~2回 招かれて 食事をご馳走になりました。ふくさんお手製のお料理です。私は有難くて もったいなくて、お腹がいっぱいでも残せませんでした。その中のお料理をいくつか教わりました。そして人生訓も学びました。素晴らしい師匠でもありました!

アクティヴで面倒見がいい ふくさんは、都立深川高等学校(前身 第一東京市立高等女学校)の初代 生徒会長だったそうです。後輩には6代目 現在の三遊亭円楽師匠がいらして、彼も深川高等学校の生徒会長だったようで、母校の式典でお二人が笑顔で肩を並べている 貴重なツーショット写真がありました。

そんなふくさんは、矍鑠(かくしゃく)と言う言葉がピッタリの女傑でした!私は世間話から波乱に満ちた その半生まで伺いました。会話がとても楽しいのです。当時 私にとって一番高齢の師であり友でしたが、いつも 若い私の方が元気を頂いておりました。

出会ってから数年後、私が入院・手術をすることになった際にも、入院前日に わざわざ励ましのお電話を下さいました。とても有難かったです。そして ‘年の離れた弟‘ のトモ君も沖縄からお電話をくれました。旅がご縁で出会った お二人からです。たくさんの良い気とエネルギーを頂きました!

因みにこの時 山形から駆けつけてくれていた兄は、同年代の友人達の他に、この年齢差のギャップが半端ない お二人の相次ぐ励ましのお電話には、舌を巻いておりました。懐かしくありがたい思い出です。

そのふくさんも106才、あと数ヶ月で107才の誕生日を迎える2017年に、黄泉の国へと旅立たれました。                      合掌


牛天神北野神社 狛牛

狛牛

牛石(ねがい牛)











2020年12月25日金曜日

110) 最年長の友 ふくさんと最年少の友 トモ君のお話 その2

早めに結婚披露宴会場に着くと、ロビーの中ほどに、木漏れ日を浴び 白髪が美しいご高齢の婦人に目が留まりました。後光がさしているように見えました。その方こそが「ふくさん」(当時 90才)でした!

ふくさんは薄いグレーの訪問着をお召しになり、右手には杖をお持ちでした。ご高齢な方の凛とした姿に、暫し私は見とれていました。

すると、ふいに椅子から立ち上がられました。お手洗いにでもいらっしゃるご様子でした。でも、和服のうえ 杖をつきながら、礼装用のバッグとサブバッグを持たれていて大変そうでした。当時、両親を介護していたこともあり、私は放っておけませんでした。

思った通りトイレの方に向かわれていました。私は思い切ってお声がけしました。『こんにちは。(突然)失礼いたします。私もこちらの披露宴にお招き頂いた○○と申します。よろしかったら 私もトイレに参りますので、ご一緒いたしましょうか。』と。

ふくさんは少し驚いたようでしたが、直ぐに にっこりなさいました。お許しを頂けたので、私はふくさんにゆっくり歩調を合わせ、そして軽く腕に手を添えました。

『大きい方のバックだけでもお持ちしましょうか?』と申し出ると、ふくさんは相好を崩され、『ありがとう!』と仰って嬉しそうなお顔をなさいました。

披露宴の時間になり、ご一緒に席を探しましたが、何とお席は隣り合わせでした。そのため 少しだけお世話をやかせて頂きました。その後 親しくお話を伺うと、ふくさんもまたトモ君の旅仲間でした。80才を過ぎてから海外旅行にいきはじめたそうです。それも年に2回、トータルで20か国にもなるそうです。すごーい! 

話が弾み楽しいひと時でした。思い出に残る旅仲間の披露宴となりました。

ふくさんは私に出会えたことをとても喜んで下さいました。『御不浄(ごふじょう)にまで 連れて行って下さり ありがとう!』と何度もお礼を言われました。御不浄とはトイレのことですが、私も久しぶりに耳にした言葉です。

そして こう仰いました。『娘にも紹介し お礼を言わせたいので、今度、ぜひ家に遊びにお出でなさいまし。』と。

錦糸公園


2020年12月15日火曜日

109) 最年長の友 ふくさんと最年少の友 トモ君のお話 その1

ふくさん(当時90歳 女性)はわたしの最年長の友でした。その出会いは最年少の友、自称 ‘年の離れた弟’ のトモ君の結婚披露宴です。運命の出会いでした! 私たち3人は旅がご縁で巡り会いました。

トモ君とは、彼が小学5年生、私が社会人5年目の時に出会いました。ともに夏休みを利用して参加した10日間の中国ツアーです。当時、中国への旅行者は少なく、ましてや子供の参加者はトモ君ひとりでした。ご両親と3人で参加されていました。

ツアーは万里の長城や西安、大連、そして上海や北京までを巡る かなり盛りだくさんの企画でした。私は中国(語)には全く馴染みがなく、ひたすら添乗員さんを頼みに観光をしておりました。

しかし 観光地での ちょっとした買い物や、お目当てのお土産である、端渓の硯や掛軸、カシミアのセーター等を選ぶ時は 言葉でかなり苦労しました。

一方、トモ君は 子供なのに なんと中国語が話せ 私はビックリしました。そして或るお店では、ふと気がつくと傍にトモ君がいて、通訳までしてくれました!

その後も『おねえさん、おねえさん!』と呼び 慕ってくれて、いつも私と一緒です。トモ君はちょっと生意気な人懐っこい少年でした。彼はお母さまが ‘やきもちを焼く’ くらい私の傍にいてくれました。

当時、私はトモ君と同じ年頃の子供たちに勉強を教えており、その年代の子供たちとは違和感なく普通にコミュニケーションが取れましたが、彼はとくべつ 頼もしかった記憶があります。そして今でも 彼に選んで貰った ‘モスグリーンのカシミアのセーター’ は捨て切れずに持っております。

帰国後も交流が続き、私がバレンタインデーにチョコレートをあげると、ホワイトデーにはトモ君がお返しの品を私の自宅まで届けてくれるなど、いっぱしのボーイフレンドでもありました。

高校生になると、トモ君は中国に短期留学をしました。本当に中国が好きなんだなと思いました。聞くところによると、お父さまの仕事の関係で中国に関心を持ち、中国の歴史や文化芸術に造詣が深くなったようです。(納得!)

10数年後、そのトモ君から結婚披露宴への招待状が届きました・・。そして会場である都内のホテルでは、運命的なふくさんとの出会いが待っていたのです!

シオン

朝焼けの伊達政宗騎馬像
photo: (c) Hiro K
http://ganref.jp/m/md319759/portfolios

2020年11月25日水曜日

108) カズさんは今・・・。

「ゆしまの郷」の カズさん(106才 女性)は今 どうされているのでしょうか。変わらずに お健やかにお過ごしでしょうか。とても気がかりです。新型コロナウイルスが恨めしいです。

敬老の日、そんな風に「ゆしまの郷」にお年寄り達に思いを馳せていると、二週間ほどたったある日、「ゆしまの郷 家族会」 から ‘ゆしまの郷 便り’ が届きました。(昨年、私は家族会の賛助会員にもなりました。)

施設内で行われた「敬老会」の写真をカラー印刷したものも同封されていました。多くのご老人たちの中に、私は恐るおそる「カズさん」の姿を探しました・・・。

一人目、二人目、三人目・・、いらっしゃいません。次の段、5名ほど写っていましたが、お出でになりません。見つかりません。気が急きました。・・・・・。

そしてそして、三段目の右端に・・・見つけました。 カズさんです! いらしゃいました! 毅然として白いマスクを ‘顎’ にかけ、お元気に笑みを浮かべていらしゃいました。良かったです! 安心いたしました。涙が出そうになりました。

でも・・、他の方々、6階で私が親しく敬聴させて頂いた皆さまのお姿はありませんでした。ご体調の関係とか、敬老の日なので この日はご自宅に帰られていたのなら良いのですが・・。

当日は揚げたての天婦羅や紅白まんじゅう等でお祝いをして頂いたようです。私はカラー印刷された写真に向かって『おめでとうございます!』と、こころからお祝の言葉を贈りました。

いつ皆さまと再会できるのでしょうか。その時、カズさんは私を覚えていて下さるでしょうか。

追記: その後 11月に入ってから最新版の ‘ゆしまの郷 便り’ が送られてきました。今回は 「寿司バイキング」編でした。そこには、にこやかなキクさん(101才 女性)や マリコさん(83才 女性)、また ひょうきんな ハルさん(85才 女性)のお姿もありました!


熊本県宇城市 三角西港 灯台モニュメント

熊本県宇城市 三角東港 海のピラミッド



2020年11月15日日曜日

107)【余談 6】豊島園の思い出

私はふと 姪がしーちゃんと同じ年頃に 豊島園へ連れて行ったことを思い出しました。今年の8月31日で閉園となった 94年もの歴史ある豊島園に、この宇都宮の姪とその妹を連れて行った思い出です。

山形から上京した二人がそれぞれ7歳と5歳の時でした。ディズニーランドが第一の目的地でしたが、その煌びやかさと余りの広さ、そして何より ‘見たことがない人混み’ に二人は圧倒され 臆したようでした。

さらに 東京に来る際、父親(私の兄)から言い渡された「守るべき10箇条」のお約束ごとに縛られ、(きっと上京前に山形で、噛んで含めるように 何度も言い聞かせられてきたのでしょう。ちょっと可哀想でした。)ガチガチになり面白さも半減したようです。

それに比べて 上京二日目に連れて行った、コンパクトで庶民的な「豊島園」の方が、彼女達の「人生初めての東京旅行」で一番の良い思い出になったようです。とても・・、感慨深いです。

『あれしちゃいけない、これしちゃいけない の「10箇条」』は、ひらがなで書かれており、遠い記憶をたどるに、「○○(私のこと)の言うことをきく」とか「我儘を言って迷惑をかけないこと!」、また 遊園地などでは「必ず(私と)手を繋ぎ、絶対に離さない(私の)傍を離れてはいけない。」等も含まれておりました。

私の方も 心して覚えておかなければならない 厳しい「10箇条」でした!

ディズニーランドではガッチガチだった姉妹は、豊島園では打って変わって 生き生きとしてました。水を得た魚のようでした。私もビックリです。

メリーゴーランド「カルーセルエルドラド」に乗り、流れるプールを体験し、そしてローラーコースターの「サイクロン」や「フライングパイレーツ」にも乗りました。後半には二人だけで乗り楽しんでいました。得意げに顔の近くでピースサインを作っていました。姪たちだけではなく、私にも懐かしい思い出の一つです。

そんな姪は 当時も今も(?)、私のことを叔母と言うよりは「友達」と思っている節がありますが、その娘のしーちゃんまで、私を遊び相手の「おともだち」と思っているようです。

神田明神 おみくじ掛け

牛天神北野神社 おみくじ掛け


湯島天神