2021年11月15日月曜日

131) 【徒然に】鏡台を誂える?

前回 130)のブログで、みな子姐さんの写真と吉原に関する本を提供して下さったのは、このブログ 75)76) 「湯島天神祭」にも登場されたMさん(今年82才になられた女性)です。私に傾聴を教えて欲しいと仰った方ですが、それ以来のお付き合いとなりました。

そのMさんが今度は私の『たけくらべ』の朗読を聴きたいと仰るのです。私が近況を尋ねられた際に、朗読のレッスンで『たけくらべ』を一章一章 丁寧に学んでいると、うっかりお伝えしたのがきっかけでした。

私は慌てて「人さまに聴いて頂くには力不足で、まだまだ先になります。」とお返事すると、「早く聴かせてくださいね、私が生きている間に。わたくし、もう82才ですもの。私の感性が豊かなうちにお願いね。」と言われてしまいました。

それで、来るべき私の『たけくらべ』朗読の日のためにお役に立てるならと、花魁道中を復活させた 吉原の料亭 松葉屋の女将、福田利子さんが書かれた本『吉原はこんな所でございました』を貸して下さったのです。

Mさんはとても前向きで積極的な方ですが、以前は 地位ある方だった亡夫に仕え、口答えはおろかご自分の意見など口にすることなく過ごしてきたそうです。ですが 今は自由の身とか。週1~2回の皇居一周散歩などもされていると仰っていました。

そして本来の自分を取り戻し、今まで高齢ゆえ 恥ずかしくて買うのを躊躇していた鏡台を、なんと82才になった今 意を決して知り合いの指物師さんに頼み 誂えたというのです。素晴らしい行動力です。

彼女の素敵なところは「誂えた鏡台」に 初めて映るご自分の姿を想像し、年齢相応のお顔のシミやシワは仕方がないが、せめて ご自分の髪(美しい白髪です)は整えて、綺麗な姿で鏡台に映りたいと、浮き立つ思いで美容院に行ったことです。女心ですね。

しかし 美容師さんに “鏡台” と言っても通じなかったそうです。“ドレッサー” と言い換えて、やっと分かって貰えたと苦笑していました。日本人の美容師さんだったそうですが。 “鏡台” と “ドレッサー” は別物だと私は思うのですがね。

私は「指物師」や「誂える」なんて言葉も通じなかったのではと危惧しました。日本古来の良いものや麗しい言葉、そして文化が失われていく気がしました。

ともあれ、私はその彼女の前で※『口紅のとき』(角田光代著)を朗読して差し上げたくなりました。※『口紅のとき』とは ひとりの女性の6歳から79歳までの “口紅にまつわるエピソード” が書かれた短編連作集で よく朗読される本です。

最後にMさんの名言を一つ。彼女は文化を重んじる方ですが、
『人の生き方に文化がなくなってきたのですね。食事にだって文化がなければ、ただの餌です。』


ガマズミの実

ホトトギス

2021年10月25日月曜日

130) 【徒然に】吉原芸者と伊勢芸者のプライド

コロナ禍の中、私は日本の古典文学に目覚め『源氏物語』や『更級日記』などを読んでいましたが、最近は 朗読のレッスンで『たけくらべ』を学んでおりました。奥が深い素晴らしい小説で、一葉は遅ればせながら マイブームになりました。

『たけくらべ』の舞台は吉原の遊郭。当時の様子が悲しいほど美しく描かれています。私は ※1参考文献を読んでいるうちに、吉原の芸者、みな子姐さんを思い出しました。

※1『明治吉原細見記』斎藤真一著
     『樋口一葉 「いやだ!」と云ふ』田中優子著

11年ほど前です。私は「吉原最後の芸者」と呼ばれた ※2みな子姐さん に三味線を習う機会を頂きました。が・・、残念ながら それから半年後に姐さんは亡くなられました。内輪の手習いとは言え、私はみな子姐さんの最後の弟子と言うことになります。たった半年間の弟子ですが。

※2 みな子姐さん:約80年にわたり 90歳まで芸妓としての活動を続けた。生涯現役を貫き、吉原文化の伝承に尽力し、その芸を世の中に伝え続け「最後の吉原芸者」と呼ばれた。自伝『華より花』 ドキュメンタリー映画『最後の吉原芸者 四代目みな子姐さん -吉原最後の証言記録-』など。

当時、みな子姐さん(90歳)は眼鏡も杖も使わず、きちんとお化粧し髪を整えていました。さすが現役の芸者さんだと私は感心しました。また「芸者は芸は売っても色は売らない」ときっぱり仰いました。プライドですね。

「芸妓として100歳まで頑張る」とも語っていたそうです。月桂冠の入った湯呑み茶碗を横におき、三味線を弾いてくれたことを思い出します。

或る日 私が「吉原最後の現役芸者」みな子姐さんに、三味線を習い始めたことを知った名古屋の友人が「こちらにも 名物芸者のS子姐さんがいるから、一緒にお店に行ってみない?」と私を誘ったのです。

元伊勢(正式には古市)芸者のS子姐さんは、三味線の名手で その三味線を弾きながら歌う「武田節」は絶妙だとか。友人と共に そのS子姐さんの「武田節」を聴きに 東京からわざわざ伊勢まで参りました。が・・・。

小柄なS子姐さんは 御年76才とのことでしたが、和服を粋に着こなされ、きびきびとされていました。もちろん話術も巧みでした。傍らにはやはり元芸者さんの 50代の娘さんと一緒に小料理屋さんを営まれていました。

伊勢の古市は『伊勢に行きたい せめて一生に一度でも』と、江戸時代に道中伊勢音頭でうたわれた「お伊勢参り」を済ませ人々の ‘精進落とし’ で栄えた街で、妓楼や浄瑠璃小屋、芝居小屋等などで賑わっていたそうです。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも出てきますしね。

その夜、宿泊先のホテルで一休みした後、友人等と三人で勇んでそのお店に伺ったのです。楽しみでした! 暫くは良い雰囲気で雑談をし、そしてS子姐さんの十八番「武田節」に話が及んだのですが・・。

友人が「彼女は(私のこと)浅草で吉原最後の芸者さんに三味線を習っている。」といった一言で、S子姐さんの顔が強張り、動揺し始めました。後から思うに、“吉原芸者には負けられない!” 等という、気負いのようなものがあったのだろうと推察します。まったく余計な一言を言ったものです、友人は。

それからS子姐さんは 体調が悪いということで、店の二階に上がってしまいました。なかなか戻ってきません。「あららら、どうしちゃったのかしら。」私は心配になりました。

それでも、私たちが帰る少し前に 二階から降りてこられ、カラオケには付き合ってくれました。でも、歌は・・期待した「武田節」ではなく「黒田節」でした。残念ながら、とうとう最後まで三味線の音は聴かせて貰えませんでした。

吉原芸者への引け目というか・・。みな子姐さんは有名人でしたし。それも含めて一目置かれる存在だったからでしょうか。わたしは残念無念でしたが。


※写真上段は料亭「松葉屋」での芸者さん
 下段は松葉屋の女将、福田利子著『吉原はこんな所でございました』
 なお、女将は作家、久保田万太郎の支援を受け花魁道中を復活させた。


みな子姐さん(左から2番目)1985年頃

2021年10月15日金曜日

129) 【徒然に】ありがとう、カズさん

カズさん (107才 女性) がご逝去されました。大往生だったそうです。長い間 お世話をされていた 姪御さん、Tさんとの電話で知りました・・。ショックのあまり、私は言葉が出ませんでした。二週間ほどの入院で 退院出来る筈だったそうですのに・・。

最初に敬聴をさせて頂いた方がカズさんでした。青葉マークの私が実習で伺った施設にいらしたのです。その日から私の敬聴の師匠になりました。いろいろと大切なことを教えて頂き、同時に とても可愛がって下さいました。 

その模様はこのブログにも たくさん書かせて頂きましたが、特に 16)の「言葉でのコミュニケーションが難しくなった方にも敬聴はできる!」は私のこころに深く刻まれました。相手の気持ちに寄り添えば『心の声をきく敬聴は出来る』と気づかせて頂きました。

「150才まで生きたい!」と仰っていたカズさんは、亡くなる直前まで何やら歌を歌われていたそうです。さすがです。苦しまなかったのですね。それがせめてもの救いです。でも・・、せめて、もう一度だけでも お会いしてお話を伺いたかったです。コロナ禍が悔やまれます。

「伯母は幸せでした。あなたと出会えて。あなたのことが大好きでしたもの。伯母に会いに行くと、“この間 ○○さん(私のこと)がね・・云々。” 等と言って、嬉しそうにあなたのことを話してましたのよ。あなたと会ってから明るくなりましたもの。」と姪御さんに言われました。(勿体ないお言葉で恐縮です。)

そして「伯母のことを書いた記事(ブログ)を是非 読ませてね。」と何度も頼まれました。

カズさんとの出会いは、私にとって貴重で大切なものでした。私の方こそ感謝です。 “敬聴” に取り組む姿勢に大きな影響を与えて下さいました。今後の敬聴活動について、課せられた役割をしっかり受け止めたいと思っております。

本当にカズさんには可愛がって頂きました。大好きだったカズさんに最後のお別れです。ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
                                                                                                       合掌

カズさんはずーっと私のことを、安倍晋三元総理大臣の秘書(このブログ 28)『えっ、総理秘書?』と29)クリスマス会をご参照下さい。)だと 頑なに信じておられました。思い込んでいらしたのです。そのまま逝ってしまわれたのが 少々 心残りではあります。                       
                                

ヤマボウシ
フジバカマ





2021年9月25日土曜日

128) 【徒然に】ひととのつながり

会えませんね。友人達となかなか会えません。メールでは伝わらないことがたくさんあります。電話でも細かいニュアンスや言葉とは裏腹の本音も伝えられません。対面していないからです。コミュニケーションには顔の表情も大切ですから。

コロナ禍で人に会う機会が少なくなった昨今、人との繋がりの大切さを心底 実感しました。前文と矛盾しますが、どんな形であれ コンタクトして下さる方は有難いです。特別な用件がなくてもご連絡を頂くのは嬉しいです。

幸いなことに 私は親類縁者以外にも 学生時代の友人や趣味の仲間たち、また区内のボランティアメンバー等からご連絡を頂戴しております。とても有難いです。

そんな中、月一くらいで 必ずメールをくれる元職場の後輩がいます。ゆかりちゃんです。30代前半で 現在は転職し新しい職場で頑張っています。年齢差もあるのに親しくして頂き とても嬉しいです。この間も 前に私がお薦めした「速水御舟」の特別展が山種美術館で開催中との事でお誘いを頂きました。

彼女とは現役中もランチや飲み会に行っておりましたが、その際には相談事をされ(気恥しいですが)アドバイスをする事も多々ありました。彼女はなんと私の言葉をメモに書き留めていました。私は背筋が伸びる思いをしたものです。

また先日は、編集作業でお付き合いのあった 印刷出版会社のはっとりちゃん(40代前半の男性)からもメールとお電話を頂きました。退職し もう2年が過ぎましたのに 覚えていてくれて嬉しい限りでした。会社の近況や編集業務のこと等で話が弾みました。

私の近況を尋ねられたので「最近は朗読のレッスンで 樋口一葉の『たけくらべ』」を学んでいるの。丁寧に読むと深くて素晴らしい小説よ。」と答えました。序でに 参考文献まで紹介してしまいました。(ご迷惑だったかしら?)

私にとっては『たけくらべ』が最も旬な話題だったので、熱く語ってしまいました!

彼は「良いですねぇ・・。私は恥ずかしいのですが『たけくらべ』は未だ しっかりとは読んだことがありません。でも 気にはなっていました。是非、読んでみたいと思います!」と爽やかに応えました。以前から 清々しい好青年でしたが、更にステキな男性になったなあと私は思いました。

覚えていて下さって 気にかけて頂くのはとても有難いことです。忘れられてしまう事が一番淋しいですよね。ですから 私は友人や知人たちに なるべく連絡を取るように心がけております。

ただ、気がかりなのが敬聴に伺っていた施設のご老人たちです。お元気でしょうか、訪れる人が少なくなって、淋しい思いをされていらっしゃるのではないでしょうか。施設のすぐ近くまで足を運んでも、ドアを開ける事が出来ない現状が辛く、もどかしい日々です。

カワラナデシコ

シュロソウ

2021年9月15日水曜日

127) 【徒然に】シャレた関係?

前回 126)の「パンチョ先生」を書いている時に思い起こした Ⅰ先生の素敵な言葉があります。今回はそのお話です。

私は在職中に一ヶ月ほど入院し 手術を受けたことがあります。学会誌の編集担当者は私 ただ一人で、入院中も気が気ではありませんでした。月刊誌ですので休刊は出来ず、術後も直ぐに 病院内の公衆電話から職場(事務局)や出版社等への連絡は欠かしませんでした。

それにしても 主治医の先生や職場(学会)の先生方、また友人達にはたいへんお世話になりました。本当に有難いです。兄弟や従姉妹は(みな地方在住)病院近くにウイークリーマンションを借り、交替で看病をしてくれました。感謝しかありません。

さて、その中のお一人 A先生はつい最近まで J大学の学長で、当時は脳外科の教授でした。A先生はⅠ先生(このブログ 27) 番外編「回想法」【 余談 2 】をご参照)の愛弟子であり、脳外科学会の役員でもありました。そのA先生とは私がJ大学にて学会誌の編集に携わって以来の長いご縁です。

ある時、何度か検温にいらっしゃる看護師さん(女優の山本陽子さんによく似た 超美人でした)から「A先生は毎日 あなたのカルテチェックや様子を診にいらしているけど、どんな関係?」と唐突に尋ねられました。

私は真意が分かりかね、言葉に詰まりました。とにかく誤解を生まないように、A先生が講師時代に、私はお隣の教授室 (当時はⅠ先生が教授) で編集業務を行っていた等、細かくご説明しました。冷や汗がでました。

後日、その経緯を恩師 Ⅰ先生にお話しすると一笑に付した後 「バカだなぁ。そんなこと、いちいち真面目に答えんでもよろしい。」と言われました。私は「そうですかね・・。でも、A先生は看護師さん達に評判が良く おモテになるので、へんに誤解されないようにと思って(ご説明したのですが)・・。」と返答しました。

そして、逆に私はI先生に訊ねました。「そのような場合、どのように答えれば よろしいのでしょうか?」と。

I先生曰く「そうだなぁ。まあ、シャレた関係とでも言っておけ!」とのお返事。さすがです・・! 数々の有名人をお相手にされているスター教授は違います。野暮ったい私の頭には浮かばない言葉でした。洒落っ気たっぷり 遊び心満載 のI先生です

私はこのエピソードとその言葉を友人達に伝えましたが、ついでながら、母や兄にも話して聞かせました。すると、同じ血筋の兄は大いに感動しました。「なるほどなー。我々には言えない言葉だなぁ。」と兄。そして「おしゃれな関係か・・。」と。(・・・?私。)

「シャレた関係」と「おしゃれな関係」は全然違います。やっぱり我が兄、見事な野暮天です・・。ともあれ たくさんの方々にお世話になった 感慨深い思い出と言葉です。


ニコライ堂






2021年8月25日水曜日

126) 【徒然に】パンチョ先生

8月 この時期になると思い出す 辛い出来事があります。
もう20年も前のことになりますが、J大学 放射線科の講師 S先生(※通称 パンチョ先生)の水難事故のことです。

※パンチョ:本来の意味はスペイン語でふくよかな男性の意。本名よりは愛称として用いられる。

当時、私はJ大学の脳外科教授室で学会誌の編集をしておりましたが、S先生はそのI教授(当時は学長も兼ね 後に理事長。このブログ 27) 番外編「回想法」【 余談 2 】をご参照ください。)がとても信頼なさっていた先生です。

S先生はもともと脳外科医だったそうですが、重い椎間板ヘルニアを患い 放射線科に転科されていました。I教授はポッチャリとした体格の愛弟子、S先生を親しみを込めて “パンチョ” とお呼びになっていました。

その年の8月末、パンチョ先生は夏季休暇をとり 釣り仲間と3人で浜名湖にいらしていました。台風が来ていたのでしょう。船舶免許を持つ先生が操縦していた船が 事故をおこしたのです。

先生は船が転覆しないように 最後までハンドルを離さず、お仲間たちが無事に船から脱出するまで見届けられたようです。そして先生だけが・・・。痛ましい事故死でした。

実はパンチョ先生は事故の1年くらい前に肝臓がんを患い、経過観察中でもありました。かなり重篤な状態だったパンチョ先生にたいし、I先生は病名を隠すほどでした。それが奇跡的に良くなられた矢先の出来事でした。亡くなられた後 (調べると) あれほど心配したがんは転移もなく消えていたそうです・・。

恩師 I先生のショックは計り知れず、あんなに憔悴した先生を見るのは初めてでした。がっくり肩を落とし 目はうつろ、いっきに歳をとられたかのように 私には見えました。

パンチョ先生はいつもニコニコとされており、院内であっても、教授室でお会いしても、親しげで柔和な微笑みを下さいました。時には ピエロのような おどけた笑顔を向けて下さることもありました。

ある時、パンチョ先生は外来診療を終え、放射線科の医局がある建物に向かう途中、私を見つけると(私が助教授に厄介な頼み事をされた後で 浮かない顔でもしていたのでしょう。)道端に立ち止まり、『どうしたの? 何かあった?』と声をかけて下さいました。

私はにっこり笑い『(気分転換に)これから こちらの彼女と飲みにでも行こうかと話をしているところです。』と伝えると、先生は『医局にビールもあるし、美味しい ‘たたみいわし’ なんかもあるよ。良かったら、医局で飲んだら?』と仰いました。いつもの優しい笑顔で。

出版社のMさんと相談し、私たちはお言葉に甘えることにしました。生スルメやくさや、干しくちこ等など、お酒の肴ばかり。珍味のオンパレードでした! 先生は自ら たたみいわしを炙ってくださいました。先生のお心遣いと初めて口にした ‘たことんび’ (タコの口) の味が今でも忘れられません。もちろん優しい笑顔と共に。

心よりこころより パンチョ先生のご冥福をお祈り申し上げます。    合掌


不忍池















2021年8月15日日曜日

125) 【徒然に】肘折温泉 ー庄助伯父さんとの想い出 その2ー

旅館で借りた下駄をはき、※銅山川沿いをゆっくり散策しました。暫くすると・・在りました!レトロな佇まいのお寿司屋さんが。風情があります。もちろん肘折には一軒だけでした。

※銅山川(どうざんがわ):最上川水系の支流で山形県最上郡大蔵村を流れる河川。
鳥川とも呼ばれる。源流地には、かつて「日本三大銅山」と呼ばれた永松銅 山があり、銅山川の名はこれに由来している。(Wikipediaより)

お寿司屋さんは平日の15時のせいか 閑散としており、もちろんお客は私達二人だけでした。お酒も飲まない伯父が山奥の温泉町でお寿司屋さんを知っているのは意外でした・・。

ただ、思い起こすに 伯父はグルメでした・・。父が怪我をし入院した際、お見舞に上京した伯父は母と私を労って新宿のフランス料理店に連れて行ってくれたことがありました。

当時は母も私もまだフレンチのフルコースなど頂いたことがありませんでした。ナイフとフォークさばきが見事な伯父に 目を見張ったことを憶えています・・。

肘折のお寿司屋さんで 伯父は海軍時代の若かりし頃の青春物語や軍港都市 舞鶴での思い出話をたくさん聴かせてくれました。戦時中で辛いことがたくさんあったはずですが、遠くを見つめ 懐かしそうに語る伯父は次第に浄化されていくようでした。

今でも青年に戻ったかのように生き生きと話す その時の ‘伯父の顔’ が忘れられません。肘折温泉と言えば、私は必ず庄助伯父さんを思い出します。

ついでながら、その時 泊った旅館は目前に朝市が立つ*斎藤茂吉逗留の宿「松井旅館」です。素朴なあたたかい旅館でした。
*斎藤茂吉:山形県上山市生まれの医師であり 雑誌『アララギ』の中心的歌人。

・肘折のいで湯浴(あ)みむと秋彼岸の狭間路とほくのぼる楽しさ
・のぼり来し肘折の湯はすがしけれ眼(まなこ)つぶりながら浴ぶるなり
         【茂吉が詠んだ歌 「肘折温泉と斎藤茂吉」より抜粋】 

今年こそ あの肘折温泉へ湯治に行きたい! 行こうと思うのですが・・。


ヒョウモンチョウ類

ルリシジミ類