父は全てを察したかのように「もう、帰ろう・・。」と静かに口を開きました。私たちに ‘その顔’ を見せぬよう 俯(うつむ)き、足元の地面を見つめていました。
私は緊張の糸が切れ・・、ホッとしました。この濃密な時間を止めたのが私ではなく父だったからです。もし、この情景を断ち切ったのが私だったなら、その後ずっと後悔した筈です。
父は思いを振り払うかのように、私の方に向き直りました。その眼は「これで御仕舞い。さあ、病院に戻ろう。」と言っていました。
その後は 一切うしろ(後から車椅子で付き従う母)を振り返らず、真っ直ぐに前を見て 毅然としておりました。男子(おのこ)でした! 父は強く優しい男子でした。
あの堅物の父が自ら手を差しだし、母の手を握るのはとても衝撃的でした。瞼にはまだその余韻が残っております。恥じらう母。おぼこのように ぽっと頬を染めたあの姿・・。私は二人をとても愛おしく思いました。
そして・・、その四か月後に父は静かに・・逝きました。
あの時 父は自分の寿命がわかっていたのでしょうか。今でも不思議です。あの父の振る舞いが。この時の写真は私の一番の宝物になっております。桜の時期になると思い出し胸が熱くなります。
私は ‘あの城北交通公園’ に行ってみたいと思いました。
桜の木の下に父母が仲良く佇み、にこにこと笑っているような気がします。
《エピソード》
その1:見学に行った介護施設への入所を頑なに拒み、入所しているお年寄り達の ‘風船キャッチボール(ボール投げ)’ や ‘折り紙・塗り絵’ を「バカバカしい。」等と言っていた父は、認知症の母がデイサービスやショートステイに通うようになると「母さんと同じところ(施設)に行きたい!」と言うようになりました。
その2:その後 老健(3か月間 限定の介護老人保健施設。介護を受けながらリハビリをし在宅復帰を目指す施設)に入ることになった父母ですが、父の願いは叶わず、母は3階の認知症専門棟へ、父は2階の一般棟へと別れ別れになりました。私は施設の方に「お食事の時だけでも 何とか二人を一緒にさせて欲しい。」と懇願いたしました。おかげさまで念願が叶い、父は満足し、母も嬉しそうに ‘束の間のひと時’ を共に過ごしました。
そんなある時、疲れた母は 父がトイレに行っている隙に、2階にある父のベッドで寝てしまいました。トイレから車椅子をこぎ 一所懸命に戻ってきた父は その姿をみて苦笑しました。でも、とても嬉しそうでした! 母は安心しきって無邪気に寝ておりました。とても微笑ましい光景でした。
その3:父が亡くなり半年ほど経った頃、友人夫妻が母を(彼女の)大好きな富士山に連れて行ってくれることになり、特別養護老人ホーム(特養)まで車でお迎えに来てくれた時の話です。
私は外泊願いを出すため、施設担当者のところに行っておりました。母は車椅子を押してくれた友人に「お父さん(父のこと)が亡くなってしまったの!」と涙を浮かべ訴えたそうです。不思議です。父の死は母には内緒でした。親戚間で取り決めたことです。あえて認知症の母を悲しませることはないとの判断でした。
知っている筈はありませんでした。では一体どうして・・?
友人はビックリしつつも 否定してくれたそうですが・・・。
でも 母は私が戻った時には笑顔でした。ケロッとしていて泣いたそぶりも見せませんでした。狐につままれたようです。亡くなっても なお 二人は一心同体なのでしょうか。
その母も父との逢瀬から二年後に、眠るように旅立ちました・・・。
さった峠からの富士山 |
不退寺(業平寺)黄菖蒲 |