晩年、母は認知症になりました。でも、元気だった頃には、いろいろな方々をお呼びして料理を振舞うのが大好きでした。
私が友人たちを花火大会(以前 住んでいた板橋区の ‘花火大会’ は有名!)やお正月に招くと、口では『まったく、お友達を呼ぶなんて、忙しくて大変だわ! (あなたは)直ぐにお友達を家(うち)に呼んじゃうのだから・・。』等と言いながらも、嬉しそうに、いそいそと沢山の料理を拵えて(こしらえ)おりました。
友人の多くは私に会いに来ると言うよりも、母に会いに 延いては母の料理を目当てに遊びに来るのが常でした。また、ちゃっかりした友人などは、彼女のボーイフレンドや姉妹までも一緒に連れてくるような有り様でした。
そして母は、大目に拵えた料理の数々を全部(家族の分さえも残さずに)、招いた友人等にお土産として持たせておりました。
そんな母を (そして私をも) 父は頭(かぶり)を振りながら 「こんな狭い家に( 人様をお招きするような家でもないのに ) しょうがないなぁ。」 と言うような面持ちで、でもやさしく見守っておりました。素敵な父母でした。理想の夫婦でした!
年を重ね、足腰が衰えて一人では外出が困難になってくると、あれ程 ‘外’ に出ることが好きだった母は、滅多に出かけなくなってしまいました。
思うに・・、ご近所の方々に 老いて腰が曲がり、歩行が覚束なくなった姿を見せたくなかったのでしょう。ある日、やむを得ず出かける羽目になった母を一人では危ないと言うことで、従姉が手を繋いで歩いていた時のことです。運悪く(?)知人と出くわした母は、とっさに握っていた従姉の手を離したそうです。弱みを見せたくなかった母の ‘プライド?’ でしょうか。
その数年後、母はやっと入所できた施設のベッドから転落し、大腿骨を骨折し入院してしまいました。結局、それが原因で施設には戻れなくなり、病院を転々とする、いわゆる ‘病院お遍路さん’ になりました。
でも、何処に行ってもいつも前向きな母は、看護師さん達に可愛がられ、痴呆ながらも山形県の民謡 『真室川音頭』 を彼女たちの前で唄い、教えたりしておりました。周囲の人々から可愛がられる、とてもチャーミングな自慢の母でした。
さらに痴呆が進んでからも、ことある度に 『早く家に帰って、みんなに美味しい料理をご馳走したい!』 と言っておりました。
ただ、悲しいのは・・、病院が変わるたび (入院期間制限があるため)、自宅に帰れるものと勘違いした母は 『まぁ、こんなに(たくさん)皆が来てくれて! せっかく来てくれたのだから、今日はたくさんお料理を作るわね。』 等と言って、はしゃいでいたことです。いま思い出しても胸が熱くなります。
【そして序ながら・・】
そんな母の葬儀には、大勢の友が集まり、さながら (母に世話になった) 私の友人等による “友人葬(宗教団体によるものとは別)” のようでした。母の人徳でしょう。
新潟の友人(開業医)は 『なま仏に会いたかった!お母さんにとてもお世話になったから。』 と言い、忙しい合間をぬってお通夜に駆けつけてくれました。有難いことです。
そして、以前 お世話になっていた 特養の当時の介護士さん達4名も仕事着の短パン姿のまま かけつけて下さいました。口々に『○○さん(母のこと)には
とてもお世話なり、いろいろ教えて頂きました。』と涙ながらに仰って下さいました。痴呆の母が介護士さん達のお世話を? 一体、何をお教えしたのでしょうか。
「人間とは何か、プライドとは何か、そして痴呆になった人の ‘尊厳’ とは・・。」 など等を考える今日この頃です。
※ 因みに
【余談 1】はこのブログの 24) のプライド!に。
【余談 2】はこのブログの 27) の番外編「回想法」その2 に掲載しております。