2019年5月25日土曜日

72)N子先生の心意気

「 come on! 」 と向こうの方からカズさん(御年106才 女性)が、茶目っ気たっぷりに私を手招きしました。(何かしら・・?)そして 「〇〇さん(私のこと)、こっちこっち!」 と、しきりに急き立てます。

目を遣るとN子先生(この施設の代表者で理事長 Y先生の奥様)のお姿も見えました。( なるほど ) カズさんは私達を引き合わせようとなさっているのですね。でも、私は既にN子先生にはお目にかかっており、自己紹介も済んでおりました。それもカズさんのご紹介で・・。N子先生はにっこり笑って私を見ていらっしゃいました。

私はカズさんのご好意に敬意を表して、N子先生にあらためてご挨拶をしました。
すると早速 N子先生は 「あなたのブログを読んでね、(インドネシア人の介護士さん)エドに 『 夕子さんのことを ‘タコ (蛸)’なんて呼ばないように! 』 と注意したのよ。」 と仰いました。(このブログの 64) 参照。)「雰囲気も良くなったでしょう。」 とN子先生は自慢げに仰いました。

N子先生は私のブログをお読みになり、問題点を把握され 改善を図って下さったようです。誠実な方だと思いました。その後もN子先生はご主人であるY先生のお身体のことやいろいろなお話をされました。
どこの世界でも旦那さまを支えるのは奥さまの役目。たいへんなのですね。本当に頭が下がります!

また、この日は定例の理事会の日。久しぶりにY先生もお顔をお見せになりました。お元気そうです。私も安心いたしました!

すると・・、Y先生を見つけたマリコさん(83才 女性)とカズさんが先生の取り合いを始めました。我先にと先生のもとに行き、話しはじめたのです。凄いエネルギーです。

Y先生はモテモテです。無理もありません、だってカッコいいです!お年を召されていても私から見ても素敵でした!

そして今度は・・、奥様のN子先生が 「〇〇さん(私のこと)、主人です!」 とY先生を私に紹介して下さいました。戸惑う・・、Y先生と私。


実はY先生とも既に顔見知りでした。3年余り前の研修(実習)日にカズさんから紹介されてました。(このブログの 2) 参照。) しかもY先生は 『蓄音機の演奏会』 にもお出でになり、結構、ノリノリでした!(このブログの27)その4 参照。)

その後もN子先生のお話は続きました。インドネシアから介護士さんを招くにあたり、‘日本での母親代わり’ をお約束したそうです。お食事の支度をしたり、イスラム教徒であるインドネシア人にとって神聖な〝ラマダン〟期間は (日中は断食なので) 日没から日の出までの間に (介護士としての仕事があるので) 充分な栄養を摂らせたりするなど等。


また、インドネシア料理には欠かせない ‘日本では手に入らない食材’ を現地から取り寄せることもあるそうです。たいへんなご苦労です。陰の力が大事なのですね。人に対する愛情でしょうね・・・。

そんな折、‘噂の介護士’ エドさんに車椅子を押され
ハルさん (85才 女性) がやって来ました。 (このブログの 68 )参照。) ハルさんは私に向かってこう叫びました!

「まだ、生・き・て・た・よ!」と。

   ( 2019年3月2日(土) 14:00~15:00 )




犬山城

                                                     明治村 コブシの花

2019年5月15日水曜日

71) 【余談 5】 父母の最後のデート その2

沈黙を破ったのは、なんと・・父でした!

父は全てを察したかのように「もう、帰ろう・・。」と静かに口を開きました。私たちに ‘その顔’ を見せぬよう 俯(うつむ)き、足元の地面を見つめていました。

私は緊張の糸が切れ・・、ホッとしました。この濃密な時間を止めたのが私ではなく父だったからです。もし、この情景を断ち切ったのが私だったなら、その後ずっと後悔した筈です。

父は思いを振り払うかのように、私の方に向き直りました。その眼は「これで御仕舞い。さあ、病院に戻ろう。」と言っていました。

その後は 一切うしろ(後から車椅子で付き従う母)を振り返らず、真っ直ぐに前を見て 毅然としておりました。男子(おのこ)でした! 父は強く優しい男子でした。

あの堅物の父が自ら手を差しだし、母の手を握るのはとても
衝撃的でした。瞼にはまだその余韻が残っております。恥じらう母。おぼこのように ぽっと頬を染めたあの姿・・。私は二人をとても愛おしく思いました。

そして・・、その四か月後に父は静かに・・逝きました。

あの時 父は自分の寿命がわかっていたのでしょうか。今でも不思議です。あの父の振る舞いが。この時の写真は私の一番の宝物になっております。桜の時期になると思い出し胸が熱くなります。

私は ‘あの城北交通公園’ に行ってみたいと思いました。
桜の木の下に父母が仲良く佇み、にこにこと笑っているような気がします。


《エピソード》

 その1:見学に行った介護施設への入所を頑なに拒み、入所しているお年寄り達の ‘風船キャッチボール(ボール投げ)’ や ‘折り紙・塗り絵’ を「バカバカしい。」等と言っていた父は、認知症の母がデイサービスやショートステイに通うようになると「母さんと同じところ(施設)に行きたい!」と言うようになりました。

その2:その後 老健(3か月間 限定の介護老人保健施設。介護を受けながらリハビリをし在宅復帰を目指す施設)に入ることになった父母ですが、父の願いは叶わず、母は3階の認知症専門棟へ、父は2階の一般棟へと別れ別れになりました。私は施設の方に「お食事の時だけでも 何とか二人を一緒にさせて欲しい。」と懇願いたしました。おかげさまで念願が叶い、父は満足し、母も嬉しそうに ‘束の間のひと時’ を共に過ごしました。

そんなある時、疲れた母は 父がトイレに行っている隙に、2階にある父のベッドで寝てしまいました。トイレから車椅子をこぎ 一所懸命に戻ってきた父は その姿をみて苦笑しました。でも、とても嬉しそうでした! 母は安心しきって無邪気に寝ておりました。とても微笑ましい光景でした。

その3:父が亡くなり半年ほど経った頃、友人夫妻が母を(彼女の)大好きな富士山に連れて行ってくれることになり、特別養護老人ホーム(特養)まで車でお迎えに来てくれた時の話です。

私は外泊願いを出すため、施設担当者のところに行っておりました。母は車椅子を押してくれた友人に「お父さん(父のこと)が亡くなってしまったの!」と涙を浮かべ訴えたそうです。不思議です。父の死は母には内緒でした。親戚間で取り決めたことです。あえて認知症の母を悲しませることはないとの判断でした。

知っている筈はありませんでした。では一体どうして・・?
友人はビックリしつつも 否定してくれたそうですが・・・。
でも 母は私が戻った時には笑顔でした。ケロッとしていて泣いたそぶりも見せませんでした。狐につままれたようです。亡くなっても なお 二人は一心同体なのでしょうか。

その母も父との逢瀬から二年後に、眠るように旅立ちました・・・。


さった峠からの富士山

不退寺(業平寺)黄菖蒲