2023年4月25日火曜日

166) 【徒然に】ちょっといい話 柳家小三治さんと柳家三三さん

落語には子供の頃から慣れ親しんでおりました。父に連れられて浅草演芸ホールや新宿の末廣亭などに行ったり、テレビやラジオでも落語を聴いていたからです。

古くは八代目桂文楽(端正なお顔立ち)次に六代目三遊亭圓生、それから三代目の古今亭志ん朝、上方では二代目桂枝雀(十代目桂小米の時代から聴いていました。)そして大好きな十代目柳家小三治(傾倒していました。)桂文珍も良いですね。最近では古今亭文菊(現在の一押し)等です。(以上、敬称略)

柳家小三治さんは落語協会の第十代会長も務められ、年功序列となっていた真打ち昇進の基準を変更し、春風亭一之輔、古今亭文菊らを香盤(落語家の序列)を超えて昇進させ、落語界の発展に一石を投じました。素晴らしいです。

その後、2014年には落語家として3人目の人間国宝に認定されました。

飄々とした表情でぶっきら棒にしゃべる。そこが最高に面白いと私は思いました。『うどん屋』『小言念仏』『死神』『芝浜』『初天神』などの演目が特に私は好きです。

むかし(1991年の秋)『噺家カミサン繁盛記』(脚本:布勢博一 フジテレビ)という連続ドラマが放送されました。小三治さんが二つ目昇進から妻との結婚、弟子とのトラブル等の半生を題材としたドラマで、原作は小三治夫人の郡山和世さんでした。懐かしく思い出します。私はこの頃から大ファンになりました。

晩年はお弟子さんに手を引かれ高座に上がるなどしていましたが、座布団の上では衰えを見せず生涯現役として、最後まで名人芸を貫きました。

その晩年の独演会での話です。会場は板橋区立文化会館でした。
私は仕事を終え、雨でしたので急いで会場に向かいました。指定席でしたが、ちょうど開場の時間とあって 大勢の方々が列をなしていました。

私は順にゆっくりと進みましたが、会場手前のコーナーには人だかりがしていました。小三治さんの写真雑誌とDVDを発売しているようでした。気になりましたが、取敢えず、傘立てに傘を収め、席に荷物を置いてから、もう一度コーナーに行ってみようと思いました。

そして再度コーナーに行ってみると、まだ人だかりです。よく見ると、何と 柳家三三さんが ‘売り子’ をされいたのです。ビックリしました。そうです、彼は小三治さんのお弟子さんでした。

後ろにもたくさんの人が並んでいたので、私は小三治さんのDVDだけ購入すると即座にコーナーを離れました。でも、多くの方々が遠巻きに柳家三三さんの写真を撮っていました。

私は席に戻りましたが・・、大事な友人が柳家三三さんの大ファンなので、彼女のために写真を一枚 撮れたらと思い、もう一度コーナーに向かいました。

念のため、文化会館の会場係の方に「(三三さんの)写真を撮らせて頂いてもよろしいでしょうか?」と尋ねると、「僕は分かりません。」との返事。でも他の方々は平気で写しています。困っていると・・「(三三さん)ご本人に聞いてください。」と大胆なご回答。

私は意を決し人だかりが少なくなってから、三三さんのところに行き「あのう、先程 DVDは購入させて頂いたのですが、凄いですね、自ら売り子さんをなさるなんて。」と言うと、三三さんは「凄いことはないやぁ。‘自ら’と言ったって、俺のじゃないよ、師匠のだよ。」と ちょっとニヒルに笑いました。

そして私が「友人が三三さんの大ファンでして、写真を1~2枚撮らせて頂いてもよろしいでしょうか。」と尋ねると、三三さんは「良いよ。でも、こそッとね!」と仰いました。

その時の写真が以下です。何となくカメラを意識している感じがしますが。三三さんも素敵な方でした。もちろん私もファンになりました!

ただ、今にして思うと・・、あの時は「小三治さん」の不測に事態に備え(体調が悪くなった時など)代役のために待機していたのではないかと思うのです。素晴らしい師弟関係だと 私は感じ入りました。









2023年4月15日土曜日

165) 【徒然に】ちょっといい話 大江健三郎さん編 その2

大江健三郎さんでした! その方は。私はパニック状態、混乱しました。なんだか狐につままれたような気分です。とりあえず私は軽く会釈をしました。

すると、大江さんはホッとし嬉しそうに2~3歩私の方に近づいて来られました。私は慌てて「今から先生のご講演を拝聴しに行くところです。」とだけお伝えしました。頭が真っ白になり、ご本人を前にしても早く会場に行って良い席を取らねば等と考えてしまう私でした。

大江さんは優しい笑顔で「ああ、良かった!では貴方は場所をご存知なのですね。わたしも一緒に連れて行ってください。」と(お返事)頼まれました。(私がご案内?でも私はとびっきりの方向音痴。)情けないことに不安がよぎりました。

「私もここは初めての場所で、いま地図をみて確認したところです。」とやんわりと申したのですが、大江さんはにこにこと私の横に並びました。

大江さんとは道すがら、ご長男の光さんのお話をしました。その日はご自宅でTVを見ていると仰っていました。大江さんは紳士でありながら、お茶目で可愛らしい方だと思いました。

暫くすると、同じく講演会にいらした年配の方々から「あのう、あなたは(大江さんと)お知り合いなんですか?」とか「一緒について行っても良いですか?」等と尋ねられました。

そして、15~6分くらい歩いて行くと、某カルチャーセンターのお偉い方と思しきご夫妻が大江さんに近づいて来られました。顔見知りの方のようでした。大江さんを待っていたようです。でも 関係者ならご自宅にお迎えに行くとか、せめて改札口付近でお待ちする等、幾らでも方法はあっただろにと私は思いました。

その方々と二言三言ご挨拶を交わした後、大江さんは私の顔を見て「ご一緒に連れてきて頂き どうも有難うございました。」とご丁寧なお礼を仰いました。そしてカルチャーセンターの方に「此の方に、ここまでご案内して頂きました。」と私を紹介して下さいました。

某カルチャーセンターのお偉い方は、畏まって私にお礼を述べました。大江さんは終始にこにことされています。大江さんの素晴らしいお人柄に触れられて私は大感激しました。

後日、私は友人達にこのエピソードを「これからは私のことを ‘やんごとなき 此の方’ と呼んで。」とジョークを交えながら話しました。

さて、ご講演で大江さんは亡くなれれた安部公房さんの話もされました。私はその日、安部公房さんのご著書『方舟さくら丸』を持っておりました。

余談になりますが、帰宅後、母に一連の話を伝えると「なぜ絶好のチャンスだったのに、尊敬している大江さんにサインを頂かなかったの。まったく積極性がないんだから。」と言われました。不甲斐ないと思ったようです。

でも・・、いくら大江さんと安部公房さんが仲良しだったと言えども、他の作家の本にサインはして頂けません。失礼です。むしろ当日、大江さんの本を持参しなかった私の落ち度です。前日に安部公房さんが亡くなられていなければ・・。残念ではありましたが懐かしい思い出です。

電車を間違えるのも “時には” 良いものですね。そしてその一年後の1994年
大江健三郎さんはノーベル文学賞を受賞されました。       合掌       
 

犬山城

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