こんな時代だからこそ、たくさんの人達が傾聴を必要としている気がします。
施設に入居されている高齢者の方々のみならず、身近な友人であれ、知人であれ、若い人達だって心のうちや痛み、また やりきれなさ等を誰かに聴いて貰いたいと思っているのではないでしょうか。
あらためて「気づき」がありました。最近に親しくなった知人の話を伺った時です。敬聴はいつでも、どこででも出来るものなのですね。
知人は「難病をかかえ入院されている姪御さんの話をされました。姪御さんは遠方にいらっしゃり、何の力にもなれない、祈ることしか出来ないと仰いました。とても歯がゆい思いをされているようでした。
長い時間ではありませんでしたが、私も(もちろん)敬聴を意識した訳ではありませんでしたが、知人に そのお話に寄り添い、こころを傾けてお話を伺いました。その夜、彼女から『お話をきいて頂いて、少し気が楽になりました。』というメールを頂きました。
私がお話を伺ったことにより「相手のこころが少しでも軽くなった」のなら何よりです。聴かせて頂いた方も嬉しいです。聴くことしか私には出来ませんでしたが。
大きく構えるのではなく、日常でも傾聴が必要な場面はたくさんあると思いました。私自身だって友達や知人等に傾聴して頂いているのだとあらためて気づきました。‘いまさら’ ではありますが。
最近かかった病院で、こちらの話をきいて下さらず、(怪我の)現状を説明して下さらない医師と出会いました。ただ『大丈夫!』だけの言葉では、なかなか納得出来ませんでした。「どこがどう大丈夫なのか」を話して欲しいのです。自分の気持ちを伝えられず、もどかしい思いをしました。
私が尊敬している恩師 故 I先生(このブログ 27)を参照)は『医師たるものは、ラビットマインドを持って患者と向き合わなければならない。』と、医局員たちに指導されていました。患者のこころと言葉に敏感になれと言う意味です。まさに傾聴ですね。名言だと改めて思いました。
相手(この場合は患者)の言う言葉に耳を傾け、その問いに答えるのもお仕事だと思います。誠意だと思いました。聴くことの大切さをあらためて 身に沁みて感じました。どんな場面でも、そこに相手がいるかぎり ‘傾聴(敬聴)’ は必要だと私は思います。
天狗人形 |