私が「傾聴」と言う言葉をはじめて耳にしたのは、12年前の文京区主催「文の京第一期 生涯学習司養成講座」のカリキュラムの時でした。(生涯学習司というのは文京区より授与される資格の一つで、生涯学習に関する一定の知識を習得し、講座を企画・コーディネイトする力を養い、生涯学習のリーダーとして地域で活動する人のことです。)きき慣れない「傾聴」とう言葉が深く胸にささりました。
ただ、内容に共鳴し興味はあるものの、仕事にかまけ実際に行動を起こすまでにはかなりの時間を要しました。
その間、第3期の生涯学習司となられた方とは意気投合し「傾聴」を熱く語り、書物の貸し借り等もして、将来は傾聴(ボランティア)の仕事をしてみたいと話し合ったものでした。でもその彼女は突然の病に倒れ帰らぬ人となりました。私はあらためて彼女の分まで「傾聴」に取り組んでみようと決心しました。
個人的な話ですが、私は15年程前に一人で父母の介護をしておりました。
特に母は認知症もありたいへんでした。今思えば母の介護の際の実体験から、傾聴の大切さがわかったような気がします。
母がお世話になっていた病院や施設では、歯茎が痩せ、合わなくなった入れ歯は誤嚥を防ぐためはずされておりました。当然ながら言葉は話せなくなりました。その上、同室の認知症患者同士では会話も成り立たず、次第に口数も少なくなっていきました。
しかし母は家族や近しい人には思いを伝えたい(話をしたい)らしく、訪ねる者の顔を見つめ、口をモゴモゴと動かしておりました。
親類は『何を言っているか分からない。話なんか出来るはずがない。』と相手にしてくれませんでした。
私は腰をかがめ母と同じ目線で母の眼を見つめ、ひたすら言葉にならない母の「声」に耳を傾けました。そしてその表情から思いを読み取ろうとしました。
時には母の眼の奥を覗き、口元を見つめ、頷いたり合いの手を入れたりもしました。母はとても満足そうでした。
誰にだって伝えたいこと、きいて欲しい事があると思います。
感情表現は人間が人間らしくあることの尊厳の一つだと思います。