2021年10月25日月曜日

130) 【徒然に】吉原芸者と伊勢芸者のプライド

コロナ禍の中、私は日本の古典文学に目覚め『源氏物語』や『更級日記』などを読んでいましたが、最近は 朗読のレッスンで『たけくらべ』を学んでおりました。奥が深い素晴らしい小説で、一葉は遅ればせながら マイブームになりました。

『たけくらべ』の舞台は吉原の遊郭。当時の様子が悲しいほど美しく描かれています。私は ※1参考文献を読んでいるうちに、吉原の芸者、みな子姐さんを思い出しました。

※1『明治吉原細見記』斎藤真一著
     『樋口一葉 「いやだ!」と云ふ』田中優子著

11年ほど前です。私は「吉原最後の芸者」と呼ばれた ※2みな子姐さん に三味線を習う機会を頂きました。が・・、残念ながら それから半年後に姐さんは亡くなられました。内輪の手習いとは言え、私はみな子姐さんの最後の弟子と言うことになります。たった半年間の弟子ですが。

※2 みな子姐さん:約80年にわたり 90歳まで芸妓としての活動を続けた。生涯現役を貫き、吉原文化の伝承に尽力し、その芸を世の中に伝え続け「最後の吉原芸者」と呼ばれた。自伝『華より花』 ドキュメンタリー映画『最後の吉原芸者 四代目みな子姐さん -吉原最後の証言記録-』など。

当時、みな子姐さん(90歳)は眼鏡も杖も使わず、きちんとお化粧し髪を整えていました。さすが現役の芸者さんだと私は感心しました。また「芸者は芸は売っても色は売らない」ときっぱり仰いました。プライドですね。

「芸妓として100歳まで頑張る」とも語っていたそうです。月桂冠の入った湯呑み茶碗を横におき、三味線を弾いてくれたことを思い出します。

或る日 私が「吉原最後の現役芸者」みな子姐さんに、三味線を習い始めたことを知った名古屋の友人が「こちらにも 名物芸者のS子姐さんがいるから、一緒にお店に行ってみない?」と私を誘ったのです。

元伊勢(正式には古市)芸者のS子姐さんは、三味線の名手で その三味線を弾きながら歌う「武田節」は絶妙だとか。友人と共に そのS子姐さんの「武田節」を聴きに 東京からわざわざ伊勢まで参りました。が・・・。

小柄なS子姐さんは 御年76才とのことでしたが、和服を粋に着こなされ、きびきびとされていました。もちろん話術も巧みでした。傍らにはやはり元芸者さんの 50代の娘さんと一緒に小料理屋さんを営まれていました。

伊勢の古市は『伊勢に行きたい せめて一生に一度でも』と、江戸時代に道中伊勢音頭でうたわれた「お伊勢参り」を済ませ人々の ‘精進落とし’ で栄えた街で、妓楼や浄瑠璃小屋、芝居小屋等などで賑わっていたそうです。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも出てきますしね。

その夜、宿泊先のホテルで一休みした後、友人等と三人で勇んでそのお店に伺ったのです。楽しみでした! 暫くは良い雰囲気で雑談をし、そしてS子姐さんの十八番「武田節」に話が及んだのですが・・。

友人が「彼女は(私のこと)浅草で吉原最後の芸者さんに三味線を習っている。」といった一言で、S子姐さんの顔が強張り、動揺し始めました。後から思うに、“吉原芸者には負けられない!” 等という、気負いのようなものがあったのだろうと推察します。まったく余計な一言を言ったものです、友人は。

それからS子姐さんは 体調が悪いということで、店の二階に上がってしまいました。なかなか戻ってきません。「あららら、どうしちゃったのかしら。」私は心配になりました。

それでも、私たちが帰る少し前に 二階から降りてこられ、カラオケには付き合ってくれました。でも、歌は・・期待した「武田節」ではなく「黒田節」でした。残念ながら、とうとう最後まで三味線の音は聴かせて貰えませんでした。

吉原芸者への引け目というか・・。みな子姐さんは有名人でしたし。それも含めて一目置かれる存在だったからでしょうか。わたしは残念無念でしたが。


※写真上段は料亭「松葉屋」での芸者さん
 下段は松葉屋の女将、福田利子著『吉原はこんな所でございました』
 なお、女将は作家、久保田万太郎の支援を受け花魁道中を復活させた。


みな子姐さん(左から2番目)1985年頃

2021年10月15日金曜日

129) 【徒然に】ありがとう、カズさん

カズさん (107才 女性) がご逝去されました。大往生だったそうです。長い間 お世話をされていた 姪御さん、Tさんとの電話で知りました・・。ショックのあまり、私は言葉が出ませんでした。二週間ほどの入院で 退院出来る筈だったそうですのに・・。

最初に敬聴をさせて頂いた方がカズさんでした。青葉マークの私が実習で伺った施設にいらしたのです。その日から私の敬聴の師匠になりました。いろいろと大切なことを教えて頂き、同時に とても可愛がって下さいました。 

その模様はこのブログにも たくさん書かせて頂きましたが、特に 16)の「言葉でのコミュニケーションが難しくなった方にも敬聴はできる!」は私のこころに深く刻まれました。相手の気持ちに寄り添えば『心の声をきく敬聴は出来る』と気づかせて頂きました。

「150才まで生きたい!」と仰っていたカズさんは、亡くなる直前まで何やら歌を歌われていたそうです。さすがです。苦しまなかったのですね。それがせめてもの救いです。でも・・、せめて、もう一度だけでも お会いしてお話を伺いたかったです。コロナ禍が悔やまれます。

「伯母は幸せでした。あなたと出会えて。あなたのことが大好きでしたもの。伯母に会いに行くと、“この間 ○○さん(私のこと)がね・・云々。” 等と言って、嬉しそうにあなたのことを話してましたのよ。あなたと会ってから明るくなりましたもの。」と姪御さんに言われました。(勿体ないお言葉で恐縮です。)

そして「伯母のことを書いた記事(ブログ)を是非 読ませてね。」と何度も頼まれました。

カズさんとの出会いは、私にとって貴重で大切なものでした。私の方こそ感謝です。 “敬聴” に取り組む姿勢に大きな影響を与えて下さいました。今後の敬聴活動について、課せられた役割をしっかり受け止めたいと思っております。

本当にカズさんには可愛がって頂きました。大好きだったカズさんに最後のお別れです。ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
                                                                                                       合掌

カズさんはずーっと私のことを、安倍晋三元総理大臣の秘書(このブログ 28)『えっ、総理秘書?』と29)クリスマス会をご参照下さい。)だと 頑なに信じておられました。思い込んでいらしたのです。そのまま逝ってしまわれたのが 少々 心残りではあります。                       
                                

ヤマボウシ
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