コロナ禍の中、私は日本の古典文学に目覚め『源氏物語』や『更級日記』などを読んでいましたが、最近は 朗読のレッスンで『たけくらべ』を学んでおりました。奥が深い素晴らしい小説で、一葉は遅ればせながら マイブームになりました。
『たけくらべ』の舞台は吉原の遊郭。当時の様子が悲しいほど美しく描かれています。私は ※1参考文献を読んでいるうちに、吉原の芸者、みな子姐さんを思い出しました。
※1『明治吉原細見記』斎藤真一著
『樋口一葉 「いやだ!」と云ふ』田中優子著
11年ほど前です。私は「吉原最後の芸者」と呼ばれた ※2みな子姐さん に三味線を習う機会を頂きました。が・・、残念ながら それから半年後に姐さんは亡くなられました。内輪の手習いとは言え、私はみな子姐さんの最後の弟子と言うことになります。たった半年間の弟子ですが。
※2 みな子姐さん:約80年にわたり 90歳まで芸妓としての活動を続けた。生涯現役を貫き、吉原文化の伝承に尽力し、その芸を世の中に伝え続け「最後の吉原芸者」と呼ばれた。自伝『華より花』 ドキュメンタリー映画『最後の吉原芸者 四代目みな子姐さん -吉原最後の証言記録-』など。
当時、みな子姐さん(90歳)は眼鏡も杖も使わず、きちんとお化粧し髪を整えていました。さすが現役の芸者さんだと私は感心しました。また「芸者は芸は売っても色は売らない」ときっぱり仰いました。プライドですね。
「芸妓として100歳まで頑張る」とも語っていたそうです。月桂冠の入った湯呑み茶碗を横におき、三味線を弾いてくれたことを思い出します。
或る日 私が「吉原最後の現役芸者」みな子姐さんに、三味線を習い始めたことを知った名古屋の友人が「こちらにも 名物芸者のS子姐さんがいるから、一緒にお店に行ってみない?」と私を誘ったのです。
元伊勢(正式には古市)芸者のS子姐さんは、三味線の名手で その三味線を弾きながら歌う「武田節」は絶妙だとか。友人と共に そのS子姐さんの「武田節」を聴きに 東京からわざわざ伊勢まで参りました。が・・・。
小柄なS子姐さんは 御年76才とのことでしたが、和服を粋に着こなされ、きびきびとされていました。もちろん話術も巧みでした。傍らにはやはり元芸者さんの 50代の娘さんと一緒に小料理屋さんを営まれていました。
伊勢の古市は『伊勢に行きたい せめて一生に一度でも』と、江戸時代に道中伊勢音頭でうたわれた「お伊勢参り」を済ませ人々の ‘精進落とし’ で栄えた街で、妓楼や浄瑠璃小屋、芝居小屋等などで賑わっていたそうです。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも出てきますしね。
その夜、宿泊先のホテルで一休みした後、友人等と三人で勇んでそのお店に伺ったのです。楽しみでした! 暫くは良い雰囲気で雑談をし、そしてS子姐さんの十八番「武田節」に話が及んだのですが・・。
友人が「彼女は(私のこと)浅草で吉原最後の芸者さんに三味線を習っている。」といった一言で、S子姐さんの顔が強張り、動揺し始めました。後から思うに、“吉原芸者には負けられない!” 等という、気負いのようなものがあったのだろうと推察します。まったく余計な一言を言ったものです、友人は。
それからS子姐さんは 体調が悪いということで、店の二階に上がってしまいました。なかなか戻ってきません。「あららら、どうしちゃったのかしら。」私は心配になりました。
それでも、私たちが帰る少し前に 二階から降りてこられ、カラオケには付き合ってくれました。でも、歌は・・期待した「武田節」ではなく「黒田節」でした。残念ながら、とうとう最後まで三味線の音は聴かせて貰えませんでした。
吉原芸者への引け目というか・・。みな子姐さんは有名人でしたし。それも含めて一目置かれる存在だったからでしょうか。わたしは残念無念でしたが。
※写真上段は料亭「松葉屋」での芸者さん
下段は松葉屋の女将、福田利子著『吉原はこんな所でございました』
なお、女将は作家、久保田万太郎の支援を受け花魁道中を復活させた。
下段は松葉屋の女将、福田利子著『吉原はこんな所でございました』
なお、女将は作家、久保田万太郎の支援を受け花魁道中を復活させた。
みな子姐さん(左から2番目)1985年頃 |